インターネットと路地裏と私たち
最近の記事の中で私は
「インターネットや携帯電話などのITインフラの登場で個人でもたくさんの人に意見を社会に伝えることができるようになった。だからどんどん自分の意見を発信しよう」
というようなことを書きました。
インターネットはやはり革命的な技術で、そのおかげで私も色んなことを学んできましたし、また私には分不相応なほどの多くの方に記事を読んでいただけました。
本当にありがたく、そしてすごいことだなぁと実感する毎日です。
でも、こういう時、ついつい忘れがちなことがあります。
いくらインターネットが有用だからといって、オンライン上だけで意見主張しておけばいいというわけではない・・・と。
今日はそんなお話です。
◆
昔、上司に業界誌に出す記事を書くよう依頼されたことがありました。
下っ端も下っ端の私は「ええー、そんなの書けませんよ!書いたこと無いですよ!」と抵抗したのですが、「適任、適任♪」なんて言われて結局押し負けてしまいました。
「自由に書いていいぞ、文字数も目安だから多少オーバーしてもいいから」なんて言われつつ、もう仕方ないですから、私なりに頑張って書いたんですよ。
それで、書き上げた第一稿を上司に見せた時の感想がこんな感じで。
「うーん、個性的で、味があって面白いんだけど、ちょっと主観的な話が多すぎるな。さすがに雑誌に載せるんだから、もうちょっとマジメな口調にしないと・・・。そして、ほんとに長いな!」
はい。
このブログの読者様方はご存知の通り、私の文章は長いんですよね。
で、この時の原稿も、このブログと同じようなノリで書いていましたから、ちゃっかり長くなってしまっていたのです(後でがんばって直し、削りましたけれど)。
私の文章が長いのには、まず第一に私が文章をまとめる能力に乏しいということがあるのですが、これは持って生まれた才能なので仕方がないとして、実はもう一つ理由があります。
それは上司も指摘した通り、主観的な話や感情的な呼びかけを混ぜることです。
理屈も書きながら、そういう感情論も書くものですから、どんどん文章が長くなるんですよね。
でも、これはわざとやってるんです。
というより、そうしないと気持ちが悪くって。
なぜ理屈も感情論も書くかという理由は単純に、人は理屈だけで動く生き物ではないからです。
お固いところになればなるほど、お固い議論になればなるほど、公の場であるほど、客観性というものが重視される風潮があります。
「その話に根拠はあるの?」と聞かれて、「はい、個人的に何となくそう思ったので」ではまず受け入れてもらえません。
私も実際自分と違う意見を持っている人の話を聞く時に、根拠が薄いと「なんでやねん」とか「それってただこういうことなんじゃ・・・」とか思いますし、問いただしたりしますから、根拠というもの、理屈というものが大事であることはもちろん認めています。
しかし、「根拠や客観性が意見の主張に必要」だからといって、「根拠の無い主観的な感情論が不要」ということにはなりません。
どちらもとっても必要なものだと思うんです。
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少し前にあった、id:Rootportさんの記事。
なかなかヘヴィだったという交渉の場で、理屈や筋を厳密に通した合理的な態度で自分の言い分を勝ち取ったRootportさんに、相手がこう言い放ったそうです。
「君は頭がいいのかも知れないけれど、社会人として、そして人間として問題があるよ」
そう、Rootportさんもその言葉に傷つき悩まれている通り、人は理屈だけ通しても、案外それで納得はしないものです。
誰だってやっぱり感情を持っていますから。
どんなに理屈が正しかろうと、どんなに筋が通っていようとも、その理屈あるいは結論が「何となく嫌」だったら嫌なのが人間です。
自分と違う意見に納得するためには、あるいは他人を納得させるためには、「理屈」と「感情」のどちらも満足する必要があるのです。
ですから、「理性」「感情」両方とも、自分と逆の向きを向いている人を納得させること。
これは本当に難しいです。
「理屈」ばかりの話だと、「感情」をないがしろにされた気がして、相手の「感情」が拒否反応を起こします。
「感情論」ばかりの話だと、「理屈」部分が足りなくて、何を言ってるんだかさっぱり分からず、根拠が無い主観的な話、と相手の「理性」に一蹴されます。
どちらも盛り込もうとすると、話は長くなり、ややこしくなり、言う側も聞く側も労力がうんと多くなってしまいます。
短くまとめつつ、相手の「理性」も「感情」も納得させるプレゼンができればいいのですが、それがまたなかなか難しいのが現状です(目指したいのですが、私は残念ながらできてません・・・)。
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多くの場合、インターネット上での意見は文字によって主張されます。
このブログもそうですし、比較的会話の形態に近いtwitterでさえ、結局は文字ですよね。
で、文字で意見を主張して、誰かを納得させようとした場合、「理屈」を伝える面では便利です。
読む人が読む人のスピードで話の流れを追えるので、時々立ち止まって考えたり、続きは後日と中断することもできます。そして内容が文字によって固定されるので、何度でも見返してその話の筋道に矛盾がないか確認することができます。
これが文字ではなく声(スピーチ)だとなかなかそうはいきません。
案外、人は人の話を完全に覚えていることは少なくて「◯◯です!」って言っていたはずのが下手をすると「△△です!」とか「◯◯ではありません!」なんてとんでもない方向で聞こえてたりします。
そんな誤解のもとに「その意見には納得出来ない」判定をされてしまうこともあるでしょう(文字でも少なからず誤解はありますが)。
そしてスピーチは一回限り&ノンストップですから、途中で違和感を感じても中断できなくて、結局その疑問点を忘れてしまったりします。
たとえば動画や音声ファイルの形式だとしたら、その話を何度も聞くことができるかもしれませんが、正直言って動画を何度も見るなんて時間も気力もかかり大変な労力ですよね。しかも、2度目見たら完璧と言えるわけではないのも困りものです。
スピーチで「理屈」を伝えるのは大変なのです。
だから、文字で伝えるネット上での主張は「理屈」を伝えるのに有効です。
そしてまたインターネットの特徴として非常に多くの人に届けることができるパワーも同時に兼ね備えています。
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しかし、文字で伝えるインターネットにも弱点があります。
それは「感情」を伝えにくいということです。
私たちは普段人と会話し、コミュニケーションする時に、思った以上に視覚に頼っていることが知られています。
相手の表情を見ることで、相手がどういう趣旨で話をしているのか感じながら話を聞いているのです。
電話ごしで話をすると、案外肝心なところが伝わってなかったり、細かいニュアンスが伝わらなかったりしますよね。
それはきっと表情が見えないからです。
face to faceは、ただそれだけで、非常に多量の情報を与えてくれているのです。
ただ、電話はまだいいんです。声の抑揚は分かるので、そこからその人の感情を推測する手がかりが得られますから。
でも、ほら、誰しも経験がありますよね。
メールを送ったり、送られたりした時に、文面が思った以上に「冷たく」なってしまったり、あるいは逆に「ふざけた」ように見えてしまう時。
一見してツッケンドンな相手のメールに驚いて、「何か悪いことしたっけ」と不安になっていたら、実は全然怒っていなかったり。
非常にマジメな話題のやり取りだったのに、相手の文面がふざけたように見えて「何ふざけてるんだ」と憤慨したけれど、実は相手はいたってまじめだったり。
そう、文字では、表情や声の抑揚などが見えないので、非常に「感情」を伝えるのが難しいんです。
だからこそ、「(笑)」などの表現があるのですけれど、これでもどのような意味の「(笑)」なのか誤解を招いていたりします。(笑)
ですから、ネット上で意見を主張して賛同を得た時、反響を得た時。
冷たいことを言いますが、相当文章が上手いのでなければ、おそらくは、ただもともと「感情」的に近い方々が賛同しているだけなんだと思います。
前から心の中では何となくそう思っていたけど、その「理屈」を聞いて腑に落ちて「そうだそうだ」となっているだけなんですよ。
多分、もともと「感情」からその意見に反対の方々は、どんなにその文章の「理屈」に筋が通っていても、「何となく腹が立つ」「何でこんなにコイツは偉そうなんだ」「いや、何か違うだろ」など何かと文句をつけて、結局「感情」的には納得しないのではないでしょうか。
ネットで用いられる「感情」を伝えにくい文字情報では、多分ここに限界があるのです。
◆
私はインターネットや「理屈」というのは高速道路みたいなものだと思うんですよ。
大都市と大都市をつないで、すごく高速かつ大量に移動ができるようにする、そんな道路。
おかげで、私たちは物理的あるいは心理的(信条的)に遠くの人に意見を主張することができ、そして反応を伺うことができるようになりました。
すごいですよね、便利ですよね。
ただ、それがどんなにすごくっても、「高速道路」だけでは人はつながらないんです。
私は実家に帰る時に新幹線を使います。
でも、もちろん新幹線だけで実家に着くことはできません。
新幹線に乗るまでに鈍行の列車に乗らないといけませんし、向こうに着いてからもバスに乗ったりしないといけません。
更に言えば、家から最寄り駅やバス停に行くまでに、私たちは「徒歩」で進む必要があります。
距離を最も稼いでるのは、確かに新幹線です。
最も速いのも確かに新幹線です。
技術の最先端で人類の英知の集大成なのも確かに新幹線です。
しかし、新幹線だけでは大きな駅から大きな駅までしかいけません。
ホームからホームまでしかいけません。
歩かないと私たちはどこにもいけません。
そう、どんなに新幹線がすごくても、同じだけローカルでの移動に時間と労力が必要なんです。
インターネットや「理屈」も同じことです。
確かにそれらを使えば遠くの人の住む町まですぐに向かうことができます。それも大変な数の人たちの近くまで一気に行くことができます。
そのパワーやスピードは圧倒的です。
でも、そこまでです。
「近くまで」なんです。
高速道路の出口付近に住んでる人には会えるかもしれません。
でも、鈍行を乗り継いだり、歩いたりしないといけない場所に住んでる人には会うことができません。
そこには実際の会話だったり、「感情」だったり、とローカルなコミュニケーションが無いと辿りつけないのです。
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近所の路地裏界隈だけで過ごしていると、近くの人はみんな顔なじみになるかもしれません。
しかし、それでは遠くの人には会うことができませんし、多くの人に出会うこともできません。
だから、オフラインあるいは「感情論」だけではあなたの気持ちは一部の人にしか伝わらないでしょう。
一方、高速道路だけの場合、遠くの人の近くまでいけるかもしれません。でも近くまで行くので終わりで、路地裏を飛ばしたせいで、相手の顔は見えませんし、相手からもこちらの顔は見えません。せいぜいうるさい街宣車が近くを回ってるなという程度です。
だから、インターネットあるいは「理屈」だけではあなたの意見は一部の人にしか伝わらないでしょうし、そして伝わり方がゆがみやすいです。
私たちがどこかに行く時に、路地裏から始まり、高速道路を通って、路地裏に終わるように、私たちが意見を交換するのも、「感情」と「感情」の間を「理屈」でつなぐ作業です。
インターネットもインターネットという高速道路上での意見交換をよくする人たちを結んでいるだけに過ぎません。実際には数多く存在するはずのインターネットでの意見交換をしていない人たちをつなぐことはできません。
路地裏ー高速道路ー路地裏、どの道を欠いても、ちゃんとつながることはできません。
インターネットだけで、その道を全て繋ぐことは不可能ではないですが、なかなか困難です。
普通、各家庭近くの路地裏にまでそんな大きな道を走らせることはできませんから。
みんながちゃんとつながるためには、インターネットだけでなくface to faceのオフラインの付き合いも重要なんです。
理屈だけの議論でなく、お互いの感情も交えた話も必要なんです。
だから、私が言いたいことは、要するに。
・インターネットで意見言ってるだけの人、みんな身近な人ともちゃんと会話しようよ、飲みに行こうよ、そしてお互いに思いを伝えようよ、世の中の問題を話し合おうよ。
・理屈だけで話をしている人、感情が無ければ説得力は半減しますよ。
・身近な人とだけ飲み交わして愚痴りあってるだけの人、インターネットで意見を主張し、価値観を交換して、議論してみよう、多くの人とつながってみようよ。
こういうことなんです。
◆
高速道路や新幹線が無い時代に各地方を行き来するのが大変だったように、みんなの意見がつながるなんて、ネットが無い時代には考えられないことでした。
でも、今やネットの登場でそれも夢ではなくなりました。
すごいことです。
理屈と感情をどっちも大事にして、
オンラインとオフラインをどっちも大事にすれば、
高速道路から路地裏まで、すべての道は私たちに通じます。
道路を整備するのは多分すっごく大変ですけれど、不可能じゃなくなっただけ、十分大きな進歩じゃないかと私は思うのです。
(⇩図1)高速道路と路地裏が両方あればみんなに伝わる
(⇩図2)高速道路が無いと近所の人には伝わるけど、遠くの人には伝わらない
(⇩図3)路地裏が無いと、無理矢理スキップして高速道路に乗せた分、伝わり方が怪しい。しかも高速道路沿いの人にしか伝わらない。
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P.S.
自戒を込めて・・・。
何より高速道路走ってるだけってすっごく寂しいんですよね。
大量の物や人が行き交っているはずなのに、孤独を感じてしまいます。
インターネットはもちろんオフラインでは考えられなかった大きな能力を私たちに与えてくれたのですけれど、やっぱりインターネットがオフラインを置き換えるものではないんですよね。
SNSとかtwitterとかLINEとか、顔を見ないなら、本当につながってるのかなって、いつも思います。
いつも私と飲みに行って、グダグダした感情論のやり取りを楽しませてくれる友人の皆様に感謝!