好きなタイプはどんな人?好きな人は本当にそんなタイプ?
「好きなタイプはどんな人?」
古今東西、老若男女、誰しも一度は聞かれたことがあるでしょう、この質問。
でも、私はこれが何だか苦手なんです。
そりゃ、以前好きだったあの人とかこの人とか思い比べて、
そういえばみんなこういうタイプだったかなー?
なーんてそれぞれ特徴をピックアップできなくはないかもしれないです。
でも、そうやって特徴を抽出して、「こういうタイプ」って書いてある箱に放り込んでしまっても、それはその人の特徴を説明するにはもの足りなくって。
かといって、どんなにどんなに特徴を抽出して「こういうタイプ」ってラベルをベタベタ貼ったとしても、やっぱり、どこまでいってもそれはその人じゃない不完全な存在な気がするんです――
◆
個人とグループのジレンマ
昔、「シュリ」という映画を見て、涙腺ユルユルになったことがありまして。
韓国の公安(?)っぽい男の人と、北朝鮮のスパイの女の人が、お互い恋に落ちちゃうお話で(あ、これネタバレかな?)。
仕事の上ではほんとに敵同士なのに、個人個人としては好き同士。
男の方はそのことに全然気づいてないけど、ついにそれが分かって・・・訪れる苦悩。
憎いけど、好き。好きだけど、憎い。
この身の千切れるような想いの葛藤に観客も心を揺さぶられずにはいられないのです。
個人同士の関係と、所属グループ同士の関係のねじれ――
これは何も新しいテーマではなくて、古典的にはあの有名な「ロミオとジュリエット」もそうですし、漫画の「BASARA」とか他にもいっぱい見られます。
きっと、昔から人々が思い悩んできたことの1つなのでしょう。
こういうテーマでの普通の人達(多くの脇の登場人物達)は、やれ「あのグループはいけ好かない奴らばかりだ」とか、やれ「あいつらはクズばかりだ」と排除しあって、そもそも交流関係はありません。
なので、主人公達も、きっとそんな感じにお互いに敵団体と認識して避けあっていたら絶対好き同士にはならなかったはずで、非常に特殊な状況と言えます。
お話でも、お互いのことを知らずに偶然知り合ってしまったとか(あ、でも、ロミジュリは最初からお互い敵同士って知ってましたっけ?)、囮捜査で仕方なく接触したとか、特殊な条件が用意されています。
そうして、忌み嫌っていた団体の人たちも、自分たちとそんな変わらないただの人間であることを知って・・・、そしてついには恋に落ちるのです。
このような話を見ていると、1つの疑問が浮かび上がります。
「あのグループはクズだ」などと揶揄していた多くの人たちは、そのグループの人たちを本当に知っていて、そんなことを言っていたのでしょうか?
きっとグループ名しかみていなかったんじゃないでしょうか。
その名札だけで、そのラベルだけで、せいぜいはちょっとつまんだぐらいで、そんなに中の人のことなんて知ってなかったんじゃないでしょうか。
そして、知ろうともしてなかったんじゃないでしょうか。
◆
グループを分ける私たち
私たちは普段、人を民族や家や国など様々なグループに基づいて分類しています。
人に限らず、物でも何でもそうです。
お肉、お魚、野菜。
分けられた野菜の中でだってどんどん分けます。
かぼちゃ、にんじん、じゃがいも。
形の無いものだってどんどん分けます。
赤色、黄色、青色。
喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。
分けて分けて分けまくります。
でも、どうしてこんなに私たちはグループを分けるのでしょう?
――きっと、それは分けると便利だからです。楽だからです。
例えば、モノを分けて名前をつけておけば、毎度毎度「ある赤くて丸い果物」を見る度に、「これはなんだろう?」と悩む必要が無くなります。
こういう「赤くて丸い果物」は「りんご」なんだと一旦分類してしまって、味などとともに記憶しておけば、「ああ、あれはおいしくて甘い果物だったなあ」と「りんご」に出会ってすぐに思い出すことができます。
つまり経験の中の「りんご」ととても似たものに会った時に、サクッと「りんご」ってことにしてしまうことで、どんな触り心地でどんな香りがしてどんな味がするか本当はもう一度確認しないといけないのを省略しているわけです。
そして、
便利なグループのものを素早く認識することで、生活の効率が向上します。
危険なグループのものを事前に認識することで、危険の回避が可能になります。
このように、このグループ分け能力は私たち人間にとって非常に強力な武器になっています。
グループ分けなくして私たちの今の生活はありえないのです。
◆
グループ分けに縛られる私たち
そんなにも強力な能力だからでしょう、その便利さを存分に味わう一方で、私たちがグループ分けに依存し縛られすぎて生じている問題も少なくありません。
その最たるものが、先ほどから挙げている「人のグループ分け」です。
「民族」
「国」
「身分」
「血筋」
「学歴」
「年齢」
「性別」
「収入」
「職業」
「勤め先」
「趣味」
「出身地」
「血液型」
「星座」...などなど。
古来からありとあらゆる観点から、私たちは私たちを分けてきました。
何となく一応分けないとしょうがないような気がするものから、そうでもないようなものまで何でもかんでもです。
そしてみんなそれぞれのグループ分けについて、何らかのイメージを自然に持ってしまっていると思います。
もちろん私も私なりのイメージを持ってしまっています。
そしてみんな普段からそれぞれのグループのイメージに基づいて、そのグループの人への対応を変えてしまっていることは少なからずあると思います。
もちろん私も無意識にそうしてしまっていると思います。
そして誰もが逆に「グループ分け」からくる悔しい思いをしたことがあるでしょう。
その時、思ったはずです。
なんでちゃんと私個人のことを見てくれないの?
・・・もちろん私も、そう悔しく思いました。
適当に歴史の本を紐解いても「グループ分け」に伴う悲劇は無数に見ることができます。
適当にニュースを見ていても「グループ分け」に伴う悲劇はいつだって見ることができます。
確かに「グループ分け」は便利で、必要なものだと思います。
でも、こんなにもこんなにも悲劇は満ち溢れています。
本当にこれ以上、どうにもできないのでしょうか?
古今東西、老若男女、私もあなたも、誰もかれもが思い悩んできているはずの問題なんです。
私たちはこのことをもっともっと真剣に考えないといけない、そう思うんです。
◆
クローン時代の世の中で
今後はそんな「グループ分け」の力がより一層強くなる可能性がありそうです。
現代に入り大量の物が共通規格で生産されるようになりました。
「カップヌードル」はどこで買っても、どれを買っても「同じ」です。
「ニンテンドーDS」はどこで買っても、どれを買っても「同じ」です。
もし違う味がしたり、対応ソフトが動かなかったりしたら、それは「不良品」で、その名を語る資格はありません。
メーカーは平謝りで交換・弁償・謝罪をするハメになります。
共通規格・大量生産の登場で、「同じ名前」は「全く同じもの」を保証しなくてはならなくなったのです。
これは当たり前のようで、当たり前でない、「グループ分け」の新たなステージの始まりです。
共通規格大量生産以前の手工業で物を作っていた時代では、手作りなので当然一つ一つ形が少しずつ違っているのが普通でした。
「同じ名前」のものが「全く同じもの」であることは不可能で、「同じ名前」でも「それなりに同じ」ならOKだったのです。
今でも手作りの品はいっぱい残っています。ぬいぐるみなんて、けっこうそれぞれ表情が違うので、選び甲斐があります。
私たちは、また、スーパーの野菜売り場や魚・肉売り場で少しでも新鮮そうなもの、きれいなものを選ぶこともします。「ニンジン」や「玉ねぎ」が同じグループであってもそれぞれ少しずつ違うことを私たちは分かっているからです。
このように、一応折にふれて「それなりに同じ」文化を経験することはできます。
ただ、最近はどんどん「全く同じ」文化の勢いが強くなり「それなりに同じ」文化を押しやってきていると思うのです。
「個人商店」が消え「コンビニ」になって、
「喫茶店」が全部「スタバ」になって、
「商店街」が「イオンモール」に敗北します。
商品だけでなく、お店そのものまで共通規格化が進んできています。
どこへいっても「同じ店」があるんです。
そして何より、コンピューターやインターネットなどのデジタル社会の進行です。
ファイルをコピーすれば、本当に「全く同じファイル」があっという間にできてしまいます。
さらに、ネットを介して、「全く同じファイル」が、いつでもどこでも参照できてしまいます。
何でもかんでも判を押したように――いえ、下手をすると判子よりもっとそれ以上に強力に世の中「全く同じもの」ばかりになってきています。
「ちょっと違うもの」に新鮮な気持ちで触れる機会が、何かを自分で「見て」「触って」「聞いて」「感じて」よく知ろうとする、そんな機会がどんどん減ってきている、そんな気がするんです。
こんな「クローン時代」が進んだら、
「同じ名前」なのに「ちょっと違う」という経験が減ってしまったら、
「同じ名前」なら「全く同じ」これが当たり前になってしまったら、
「同じグループ」の中が少しずつ違う可能性を忘れてしまうんじゃないでしょうか?
今後の、私たちの「グループ分け」との闘いはきっともっと厳しいものになるでしょう。
◆
「グループ分け」で見る時、見ない時
「グループ分け」は私たちの本能のようなもので、決して捨てることはできません。
だから、私たちはうまくこれと付き合っていくしかありません。
とってもとっても強力な「グループ分け」に支配されずに、うまく付き合う作戦は1つです。
――本当に大事なことだけは、
「グループ分け」に頼らずに、
自分で見て自分で考えて自分で選ぶ
ただこれだけです。
あんまり大事じゃないことは、もういいんです、「グループ分け」に頼って、楽にこなしたらいいんです。
些細な事まで「グループ分け」に頼らずに、自分で吟味していたらキリがありません。
ニンジンも玉ねぎも、目をつむって、もうサッと取ってしまったらいいんです。「ニンジン」は「ニンジン」です。信じましょう。
牛乳の賞味期限だって1日違うぐらいじゃ、きっと味はそんな違いません。「牛乳」は
「牛乳」です。信じます。
そして、本当に大事な時だけは、自分で吟味するんです。
自分でしっかり見ないといけないんです。
時間も、労力もかかります。
とっても大変です。
でも、本当に大事なら、ちゃんと自分で見ないといけないと思うんです。
自分で決めずに、勝手に作り上げられた「グループ」に決めてもらうなんて、おかしいと思うんです。
だって、大事なもの選ぶ時に、そんな楽して、サボってもしょうがないでしょう?
そして、その本当に大事なこと――人によって違うかもしれません。
でも、私にとってそれはやっぱり多分、
「人を評価すること」
そう思います。
「人を評価する時」は「グループ」でなく自分で見たい、そう思うんです。
人はやっぱり、ニンジンや玉ねぎとは違うんです。
◆
好きなタイプ、好きな人
結婚相談所とか、出会い系とか、あれやこれやの「好みの条件」で、相手を「グループ分け」していきます。
そうやって色んなラベルのついた「あなたのために選ばれし人」がはじき出されます。
それって、まさに「あなたの好きなタイプの人」です。
でも、その人は本当に「あなたの好きな人」でしょうか。
そんな機械的に選べるものでしょうか。
本当は知ってるはずです。
「好きじゃないタイプ」の中に「好きな人」がいる可能性があること。
「好きなタイプ」の中に「好きな人」がいない可能性があること。
「好きなタイプ」のはずだから好きになれるはず・・・本当に?
「タイプ」という「グループ」をいくらこねくり回しても、ワインのラベルをいじってるだけなんです。
そのワインの本当の出来は飲んでみないと分かんない、そうでしょう?
そして本当に自分の一本を選びたいなら、飲んでみないと。
飲んで飲んで飲んで飲むしかないんです。
・・・ほら、好きな人はやっぱり自分で決めたいよね?
だって、それは大事なことだもん。
いつか、ついに自分の1人を選んだ時、多分誰かに聞かれます。
「なんでこの人にしたの?」
色々、理由をこねて返答することもできるかもしれません。
でも、どんなに理由をこねてどんなに「タイプ」を説明しても、どうやったって、あなたには物足りなくて、その人を永遠に説明することはできないんです。
ただ、あなたがあなただけで、あなただけの基準で決めたたった1人の人なのですから、もはや言葉では説明できない・・・そのはずなんです。
だから――
「だって、好きなものは好きなんです」
多分、これでいいんです。
P.S.
5000字超えました・・・。
あう・・・長くてすみません(>_<)
- 作者: シーナ・アイエンガー,櫻井 祐子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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NHKで講義を聞いて、その話を参考にしています。