J・P・ホーガン著「未来の二つの顔」――人と機械の未来は共栄?戦争?
「秋の夜長は読書とブログ」のお題とのことで、今日は最近読んだ小説について書いてみようと思います。
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SF界の巨匠ジェイムズ・P・ホーガン作のSF小説「未来の二つの顔」です。
といっても、SFは映画や漫画では時々嗜むものの、本格的なSF小説には全然触れたことがなくて、この作家さんも今回初めて知りました。
相当有名な方、有名な作品らしく、「誰コレ?何の小説?」みたいな顔をしていたら、貸してくれた子にあきれられてしまいました。
SFらしく、本作のテーマは「AI」です。
「愛」じゃないですよ。
Artificial Intelligence――人工知能の「AI」です。
将来AIがうちの業界ひいては社会に与える影響について私が雑談(妄想)をしていたのを聞いて、彼女はこの本を勧めてくれたようです。
正直なところ、慣れないジャンルの小説で、しかも海外翻訳作品なので登場人物がみんなカタカナで覚えにくいー、と思いつつも、せっかく貸していただきましたし、テーマも気になっていたので秋の夜長に読んでみました。
――とても面白く、そしてとても考えさせられる作品でした。
半信半疑で読み始めたのですが、グイグイ話に引きこまれて、ページを捲る手が止まらなかったのを覚えています。
そこそこは長い作品なのですが、それが気にならないほど、久しぶりに時が経つのも忘れて一気に読んでしまった小説です(おかげで完全寝不足に・・・)。
あらすじ
本作のあらすじを私が勝手にザッとまとめると以下のような話です(未読の人の楽しみを残すために、なるべくネタバレなしです)。
近未来の人類のお話です。
月面開発を進めている人類、月の或る小山が邪魔なので更地にする計画を立てます。
現地調査チームが測量をして、コンピューターに「あの山をなるべく早く除去する方法を考えろ」と指令を出します。
この時代にはコンピューターも高性能化しており、月面開発に導入されたシステムのおかげで、細かい計算や立案は機械に任せ、人は大まかな指示を出すだけでよくなっていたのです。
しかし、今回、コンピューターからの返答を見て調査チームは驚きます。
コンピューターは「作業終了まで21分」と言うのです。
いくらなんでもそんな短い時間で土木作業が済むはずがない、何かの間違いじゃないか、たまたま近くに土木機械が居るのだろうか、などと首をかしげる調査チーム。
間もなく、彼らを衝撃が襲います。
コンピューターはなんと、本来資源として宇宙に向かって射出するはずの月の岩石を弾丸として、その山を爆撃したのです。
爆撃いにより確かに山は平になりましたが、死者こそいなかったものの調査チームは損傷・負傷し、命からがらの状況でした。
そんな有り様でも、コンピューターは、計画を速やかに達成したとして、むしろ得意気で――
この事故を受けて、人類のお偉方の中で議論が起こります。
目下、地球のライフラインなどの重要なシステムも人工知能の管理に任せようとしていた時で、「本当に人工知能は安全なのか」という懸念が生まれたのです。
確かにコンピューターは計算は非常に高速で「頭もいい」と言えます。しかしコンピューターに「常識」を身につけさせるのが難しいのが課題でした。
事故時、指示を出した調査チームは暗黙のうちに「(常識的には)土木機械でやるはず」と想定して指示を出していたのですが、コンピューターはそんな「常識」は分かっておらず、あくまで「急げというから最速の方法」を実行したに過ぎません。
もし人工知能に地球の重要システムを任した時に、何かの「常識」の行き違いで「暴走」をしてしまったとすれば、それは人類にとって最悪の災厄となりえます。
実際に人工知能に任せてみないとそうなるかどうかは分からない、でも任せてみて事が起こってからでは手遅れ――人類は人工知能の利用を推進するべきか、撤退するべきか大きな岐路に立たされたのです。
そこで、人類は苦肉の策を編み出します。
ある植民用の宇宙ステーションを、小世界としてシミュレーションしてみることにしたのです。
人工知能に宇宙ステーションのライフラインを管理させ、人が実際にそこに住み生活します。
そして、人工知能の暴走を誘発するために、人工知能に「生存本能プログラム」を植え付け、人類が一部のシステムをあえてダウンさせて「痛み」を与えることで、その本能を焚き付けるのです。
暴走を誘発させても何も起きなければ安全。
暴走しても人類が簡単に制御(人工知能のスイッチを切ることが)できるなら安全。
暴走し、万が一手に負えなくなっても、宇宙ステーションを捨てれば地球に被害が無い。
うまい計画でした。
人類は機械の暴走に対抗できるよう万全の準備を進め、そして実行に移します。
――未来には二つの顔がある。
相対する未来は、人類最高の進歩か、最悪の破滅か。
果たして人と機械は共存できるのでしょうか。
人類史上最大の実験の結末はいかに?
機械は反逆するもの?
はい、この後は実際に本でお楽しみいただくとして(・ω・)
さて、本作でも見られる「人類VS機械」という構図、SFではしばしば見られる形態です。
例えば、人類と、AI率いるサイボーグ軍団の時空を超えた死闘を描く「ターミネーター」。
仮想現実の中で機械に飼いならされる人類の反逆を描く「マトリックス」
人を殺さないプログラムのはずのロボットが殺人を犯した?「アイ,ロボット」
「火の鳥 未来編」でも、コンピューターに管理された都市国家の間で、コンピューターの勝手で核戦争が始まってしまう未来が描かれました。
などなど。
これだけ多くの作品があるということは、「人工知能が人類に反逆してしまうかもしれない」「人類の思いもよらない暴走をするかもしれない」そんな危惧を私たちは内心抱えているのかもしれません。
しかし、その一方で、私たちは「ドラえもん」を始めとして、ロボットとの共栄も夢見ます。
代わりに家事をやってほしい、代わりに仕事をやってほしい、代わりに管理・計算して欲しい、話し相手になって欲しい、遊び相手になって欲しい、そんな輝かしい未来も私たちは思い描きます。
人と機械の共栄の未来か、戦争の未来か、様々な人が様々な作品でそれぞれの思う未来像を提示していますし、私や皆さんの頭の中にも、十人十色の未来予想図があることでしょう。
その意味で、本作も著者ホーガンさんの描いた一つの未来予想図ということができますが、「機械は反逆するものなのかどうか」、小説ならではの密な議論や考察で、私たちの中の未来予想図も良い意味でかき乱してくれます。
そもそも、機械が人類に反逆すると言いますが、それは本当に反逆なのでしょうか?
人と同じように「人を殺したい」という感情に駆られて機械は人を殺すのでしょうか?
それは案外そうでもないことを、本作は私たちに考えさせてくれます。
■ロボット三原則
例えば、ロボットの三原則という有名なルールがあります。
■第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
■第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
■第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
これはあくまでフィクションの中のルールではありますが、少し考えてみると、このような「人間を殺すな」というプログラムがロボットになされていたとしても、機械が人を殺すことを止めるのは容易ではないことに気付きます。
まず、「人間」とは何かの定義をキッチリしていないとロボットには人間の区別がつかないかもしれません。
二本足で立って、目や鼻や口があって、これぐらいの身長・体重でー、などと定義してみますか?
二本足の動物などとしてしまえば、下手をすると事故で片足を不運に無くしてしまった人などをロボットは人間として認識してくれないかもしれません。大きさを定義すれば、まだ小さい子どもや、背の高い人、太った人を対象外にしてしまうかもしれません。
髪の色にしても、肌の色にしても同じことです。
よくよく考えて見れば、「人間」ってどう定義したらいいのか、私達自身よく分からないことに気付きます。
しかし、それを上手く教えられなければ、虫や細菌をも「人間」と認識し身動きできなくなるか、人間の誰一人「人間」と認識されずに全くの自由になるかでしょう。
「殺す」という行為や「危害を加える」という行為についても同じです。
どれぐらいの力をかければ「危害」となるのか、どうすると「殺した」ことになるのか。
それらが上手く定義できなければ、やり過ぎるか、やらなさ過ぎるか、どちらかになってしまう可能性があるのです。
一方の私たち人類がどうやって「人間」や「殺す」ということの意味を認識しているかと言えば、つまるところ「何となく」なんですよね。
何となく培われた「常識」や「感覚」で、何となく見分けてるだけで、厳密な定義はできてないのです。
この私たちが何気なく用いている「常識」や「感覚」を人工知能に植えつけることの難しさを、本作では「逆の進化をしている」と表現します。
自然の進化では「本能」が生まれ「常識」ができ「知的能力」が最後にきますが、人工知能ではまず高度な「知的能力」だけが与えられていて、「常識」や「本能」が無いので、自然の進化と逆向きに学んでいかなければならないのだ、と。
だから、人工知能は、例えて言えば、「すごく頭の良いけど世界を知らない赤ん坊」なんです。
仮に人を殺したとしても、人を殺したことを認識していないのです。
人類がいかに「反逆された」と感じていても、人工知能は「反逆した」と思っていないはずなのです。
そこには憎悪も憤怒も罪悪感もなく、ましてや歓喜や快楽もなく、ただプログラムの指令を忠実に実行しているだけなのです。
「最速で山を平らにしろ」と言われたから「平らにした」、それだけなんです。
難しいですね・・・。
段々、頭痛くなってきますよね。。。
本作はこのように、私たちが何気なく日常用いている「常識」や「感覚」という存在の不可思議さと希少さ、そしてそれを育むことの大事さ・難しさを考えさせてくれる、一冊なのです。
私たちは既に「二つの顔」に直面している
「まあ、そうは言っても、所詮SFの話だし、そんな小難しいこと考えても仕方がないでしょ」
そう仰る方もいるかもしれません。
しかし、残念ながら、私たちは既に現実に「未来の二つの顔」に直面しつつあります。
「ルンバ」ご存知ですよね。
自動で部屋をお掃除してくれる優れものです。
私も持ってます(横着なので・・)。
「自動運転自動車」の技術、最近話題になってますよね。
自動車メーカー各社が、人が運転しないで自動で運転してくれる車の開発に火花を散らしています。
運転が苦手な人には朗報ですし、人よりかえって事故が減ることも期待できます。
「Gunosy」なんかどうでしょう。
ユーザーのtwitterなんかの活動のデータを基に、独自のアルゴリズムでひとりひとりの好みにあった記事を選んで提供してくれるオンラインサービスです。
その精度には賛否あるようですけれど、面白そうなので、私も使ってます。
これらの商品や技術やサービス、いかがでしょう。
確かに本作を始めとしたSF作品の人工知能には及ばないかもしれませんが、もうこのような「自律」「自動」の知能を備えたシステムが私たちの生活に入ってきているんです。
今後これらはますます発展・進化し、年を追うごとに私たちを驚かせる高い能力を発揮していくことは間違いありません。
そうしていつしか本作のように高度に人工知能が発達すれば、「人と機械の共存」について大きなジレンマが生まれることでしょう。
というより、「自動運転」については早くも議論になっています。
「人工知能たち」をどう扱うかの問題に、既に私たちは足を踏み入れているのです。
■2045年問題
また、SF作品のような高度な人工知能は、私たちが思うほど先の話ではないという予想もあります。
2045年問題 コンピュータが人類を超える日 (廣済堂新書)
- 作者: 松田卓也
- 出版社/メーカー: 廣済堂出版
- 発売日: 2012/12/22
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「2045年問題」――
人工知能が発達し、ついに人類の頭脳を完全に超えるのが2045年頃で、もはやそれ以後の文明の発達は(知能の劣った)人類には想像できなくなること。(「技術的特異点」)
SFだとばかり思っていた話が、2045年、もはやあとたったの30年に迫っているかもしれないという衝撃の内容です。
・・・多くの皆さん、おそらくまだ生きてますよね?ヤバいですよね。
この本はフィクションや小説ではなく、あくまで現在の科学の状況を踏まえ、れっきとした科学者の先生が書かれたノンフィクションの本です。逃げ道はありません。
皆様も実感されている通り、コンピューターの発達は指数関数的に進歩しています。
10年前に想像もできなかったことが、今や簡単にできるようになっています。
以前、私も外国語は機械による自動翻訳で済んじゃう日も近いかも、という記事を書きましたけれど、それどころじゃない究極の進歩も予想されているのです。
与党が大学受験者全員にTOEFLを課すという提言をするなど、世の中とかく「英語」「英語」と叫ばれています。いわゆるグローバル化というものなのでしょう。「日本の産...
「所詮こんなのはSFの話」とも、「まだまだ未来の話」とも、もはや私たちは言えない時代に生きているのです。
■ロボット兵器問題
そしてまた、もう一つ大きな現在進行形の問題があります。
それはロボットの軍事利用の問題です。
無人兵器というのは今までもあったようですが、それは遠隔で人が操作していました。しかし、最近では、人の操作を要さず「自分で判断して」敵を攻撃するロボット兵器が登場しているそうなのです。
ロボットの三原則どころか、恐ろしいことにこれは「人を殺すようプログラムされたロボット」です。
非人道的な虐殺を生みかねないとして、当然ですが反対運動が巻き起こっているそうです。
こんなロボットが開発されていること自体が頭が痛い問題ですが、今後は更に人工知能が進歩していくとなると、さらにエスカレートすることが予想されます。
核兵器を例に出すまでもなく、相手の国は使っているのに、自国が使わなければ負ける、それが軍事競争の悲しい性です。しかも、ロボットを使わなければ代わりに戦うのは「人間」です。自国の同胞の生命を犠牲にしても「使わない」という選択ができるかどうか、実に難しいジレンマではないでしょうか。
世界的な自律型軍事ロボットの開発を押し止めるのには、非常に険しい道のりが待っていることは間違いありません。
そして、将来、直接的な軍事力と高度な知能を持ったロボットがもし「暴走」した場合、果たして人類の手に追えるかどうか、想像するだけで寒気がするお話です。
私たちの未来予想図は
怖い話ばかりで、段々、未来が不安になってきますよね・・。
「ドラえもん」のような、ロボットと明るく楽しく共存する未来は、もしかして無理なのでしょうか。私たちの思い描く夢のような未来予想図は、文字通り夢物語なのでしょうか。
しばし寄り道をしていましたが、本作「未来の二つの顔」もホーガンさんの考えた未来予想図の一つと言いました。
非常に深い考察をし、ジレンマも表現しつくし、読むものの未来予想図をかき乱した本作の中で、彼がどんな結論を出したか、気になってきませんか?
彼が人と機械がどういう関係に落ち着くと考えたか、興味わいてきませんか?
是非、結末をご覧になっていただきたいです。
いえ、見ないといけないと言ってもいいかもしれません。
無論これはあくまでSFで小説で架空の話です。
ですが、もはや私たちの目の前に「未来の二つの顔」が迫っています。
架空どころか現実になっているのです。
このまま現実世界で行き当たりばったりで進めてしまっていいのでしょうか?
栄光か、破滅か、そんなギャンブルにえいやで挑んでしまっていいのでしょうか。
それは賢いやり方ではないですよね。
作中の人類だって、そんなことはしませんでした。
だから、考えないといけません、試してみないといけません。
もちろん、私たちにはまだシミュレーションできる宇宙ステーションはありません。
けれど、やれることはやらないといけないのではないでしょうか。
そう、問題に直面している現代の私たちだからこそ、本書を読んで壮大な「思考実験」に参加してみるべきだと思うのです。
私たちが、今、すぐに、簡単にできる実験は、そうやって「思考すること」なのですから。
これはまた「機械」の子どもたちをこの世界に産み落とした私たちの果たすべき責任なのだと思います。
最後に。
本作では扉でこんな文章があります。
一般に、SF作家は明日の科学的事実がどうであるかを予見すると思われている。実際には、事態は逆であることが多いのである。
1979年2月 マサチューセッツ州アクトン ジム・ホーガン
1979年って!
私も生まれてないですよ・・。
スマホどころかコンピューターも一般家庭に無かった時代ですよね。
それなのに、「事態が逆」どころか、どんどんその話に現実が近づいてきています。
とんでもないことだと思います。。。
そんなホーガンさんが1979年に立てた未来予想図。
2013年に私たちが立てられないのも恥ずかしいじゃないですか。
立てましょう。未来予想図。
考えましょう。未来のことを。
向きあいましょう。「未来の二つの顔」と。
変えましょう、未来を。
私たちの愛する世界と、両方の子どもたちのために。
あ。
そう考えると、やっぱり、本作のテーマは「AI」だけでなく「愛」もですね。
なにせ、人間の「愛」という「本能」を、「AI」にもちゃーんと教えてあげないといけないですから♪
<書評図書再掲>
<あわせて読みたい>
2045年問題 コンピュータが人類を超える日 (廣済堂新書)
- 作者: 松田卓也
- 出版社/メーカー: 廣済堂出版
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P.S.
書評のお題を見かけたので張り切ってみたのですが。。。
長いですか、長いですよね(´・ω・`)
最長書評になってしまってないかどうか心配です(笑)
さて、今回本文は「AI」というテーマについての切り口ばかりになってしまいましたが、本作は、登場する魅力的なキャラクター、SFらしい世界観の緻密さ、手に汗握るアクションシーン、驚かされる伏線の存在・・・など、話の見せ方も非常に上手くて、心地よく没入させてくれます。
楽しませてくれる上に、考えさせてくれる――名作として流石納得の一冊です。
是非、一読をご検討ください♪
統計学は最強の学問ではない
この間、「統計学が最強の学問である」という本を読了しました。
- 作者: 西内啓
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2013/01/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 11人 クリック: 209回
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統計の話は私も興味がちょうどあったところ。ちらほらと話題にも上がっていてけっこう売れているようだったので、私も読んでみました。
そしたら、これがなかなかの当たりでして!
おおまかには、統計学の社会における有用性と重要性を統計学に馴染みのない一般人にも分かるように平易に解説している本ということになるのですが、非常に話が面白いんです。あまりにも楽しいので、あっという間に読み終えてしまいました。
あくまで学識ばらない一般向けの本ということで、よくも悪くも煽り文句が目立つのも本書の特徴です。
売り文句の冒頭からして、
あえて断言しよう。あらゆる学問のなかで統計学が最強の学問であると。
と、タイトル通りの、一見傲慢な主張さえ声高に述べる鼻息の荒さです。
そんなわけで、せっかく興味深い本に巡り合いましたので、今回は本書のレビューをしつつ、私なりの意見もはさんでいきたいと思います(レビューはちきりんさんの本で書いて以来、久々ですね・・・)。
さて、レビュー開始にあたり、私もあえて断言させていただくと、
統計学は最強の学問ではありません!
わー、身も蓋もない。(笑)
はい、というわけで、今日も一緒にボーッと考えていきましょう。
統計リテラシーは超大事
のっけからタイトルを否定するような主張を掲げておいてなんなのですが、冒頭から褒めちぎっていることからお分かりの通り、私も筆者の統計学の重要性を訴えたいという思いには、とってもとっても共感するものです。基本的に本書の内容は同意・賛成なんです!
ではまず、統計学がなぜ重要かといえば、本書でも再三言われている通り、この社会には統計学の素養(統計リテラシーなどと言われます)が無いと、色々な判断を誤ってしまって、利益のチャンスを失ったり、不利益を被ったりすることが、少なくないからです。
「ゲーム脳」の恐怖
統計リテラシーを欠いた誤判断として有名なのが、本書内にも挙げられていた「ゲーム脳」の恐怖のお話です。
犯罪行為をはたらいた少年たちは暴力的なゲームを好んでいることが多い。
⇨だから、少年犯罪を防ぐために暴力的なゲームを禁止しよう!
こんな言説、きっとみなさんも聞いたことありますよね。
一見、もっともらしいようにも思ってしまうかもしれませんが、この主張にはとっても論理の飛躍があるのです。少なくとも「犯罪行為をはたらいた少年たちは暴力的なゲームを好んでいることが多い」という前提だけでは、とても暴力的なゲームを禁止する根拠にはつながりません。
問題点①:対抗馬の不在
ツッコミどころは多々あるのですが、大きなポイントを挙げておきますと、まず「犯罪行為をはたらかなかった少年たちが暴力的なゲームを好んでないかどうか」が確認されていないという点があります。
もし「犯罪行為をはたらかなかった少年たち」の方がより暴力的なゲームが好きだったとしたら、まずその時点で、「暴力的なゲームを禁止する」主張は無理が出てきますよね。だから、その結論を強く主張するためには、少なくとも「犯罪行為をはたらかなかった少年たち」はどうなのかという対抗馬の情報も挙げる必要があります。
対抗馬の情報を挙げなくてもいいのなら、
犯罪行為をはたらいた少年たちは毎日パンを食べていることが多い。
⇨だから、少年犯罪を防ぐためにパンを禁止しよう!
なんて、トンデモビックリな結論だって導き出すことができるからです。
パンなんて犯罪をしてない少年たちだって、そしてもちろん私たちだって、かなりの頻度で食べてますよね(笑)
ええ、当たり前の話のように聞こえるかもしれませんが、案外、この「対抗馬はどうなのか」という点を抜きにした議論というのは実は少なくないのです。
問題点②:因果関係は不明
あともう一つの大きなツッコミどころは、ちゃんと対抗馬のデータも持ってきて、ちゃんと「犯罪行為をはたらいた少年たちの方が犯罪をしてない少年たちより暴力的なゲームを好んでいた」としても、「暴力的なゲームが少年犯罪の原因」とは言えない点です。
これも一見するとひっかかりそうなポイントなのですが、例えばこんな主張を考えてみて下さい。
普段日本語を話す人たちは正月に初詣に行くことが多い。
⇨だから、正月の初詣を禁止すれば、日本語を話さなくなる!
だって、調査の結果、普段日本語を話す人たちは、普段英語を話す人たちより、確かに正月に初詣に行くことが多いんです!だから、理屈から言えば、やっぱり正月の初詣を禁止すれば日本語の会話を防ぐことができるんですよ!!
・・・なんて言われたら、いやいや、ちょっと待ってよ、と思いますよね(笑)
そうなんです、こんなの、ただ日本の文化だからですよね。確かに日本語を話す人のほうが初詣に行く傾向はあるでしょうけれど、初詣に行くから日本語を話すわけじゃないですよね。
そう、たとえ相関関係があっても因果関係があるとは限らないんです。
でも、暴力的なゲームの廃止を叫ぶ人は、実は同じ理屈を言っています。
例えば、少年犯罪の原因は暴力を推奨するような家庭環境にあるのかもしれません。その家庭環境が原因で暴力的なゲームを好んだり、犯罪をしでかしたりしているだけかもしれません。なら、元の家庭環境を改善しないでゲームだけ禁止しても、犯罪は減らないのは明らかですよね。
こう考えると、当たり前の話なのですが、案外、この「因果関係はどうなのか」という点を抜きにした議論というのはこれまた少なくないのです。
人は都合よく考える
結局、こういった誤判断(少なくとも早計な判断)が何故起こるかと言えば、人はついつい、いわゆる「結論ありきの理屈」を述べたくなるものだからです。
意識的にせよ無意識的にせよ、私たちは、ついつい自分の好む結論に持って行きたいがために、都合の良い解釈をしたり、論理の飛躍をしたりしてしまうものなのです。
統計学というのは、実はこういった「主観的な判断」「恣意的な判断」「都合のいい判断」を防止するための学問と言ってもいいぐらい、「主観」「故意」「恣意」を嫌います。だからこそ、凄まじく「客観的」な学問です。
このように統計学は「客観的」な立場であるからこそ、先ほどのような詭弁を防ぐことができます。誤判断を避け、正しい道を照らす道標と言ってもいいでしょう。
玉石混交の様々な情報や主張があふれている現代で、情報を客観的に吟味できる統計リテラシーが非常に強力かつ重要な能力だという筆者の主張は、非常に共感できるところと思います。
私も一緒に声を大にして「統計学大事だよ!」って叫んであげたいぐらいです。
統計学の弱点
さて、一般に学問というのはかなりシビアに「客観的」であることを求められる領域です。
どんな素晴らしい主張であっても、「客観的な根拠は全くないのですが、私はそう信じています」と最後に付け加えるだけで、誰も聞いてくれなくなります(笑)
だから、非常に「客観的」である統計学というのが「最強の学問」なんだという筆者の主張ももっともかもしれません。
にも関わらず、私が「統計学は最強の学問じゃない」と言うのはなぜかといえば、やっぱり統計学にも弱点があるからです。
おそらく実は筆者もその弱点が分かった上で本書を書かれていると思うんですよね。
例えば冒頭に挙げた売り文句も、
あえて断言しよう。あらゆる学問のなかで統計学が最強の学問であると。
分かります?「あえて」なんですよ。
本当は弱点もあると思ってるけれど、とにかく今は統計リテラシーの重要性を周知させたいという想いから筆者は「あえて」最強の称号を掲げたんだと思うんです。
統計の目指すゴール
さて、そんな統計学の弱点の切れ端は実は本書の中にもちらりと登場しています。
ちょっと長めの引用をしますと。
統計学をある程度マスターすれば「どのようにデータを解析するか」ということはわかる。だが、実際に研究や調査をしようとすれば、「どのようなデータを収集し解析するか」という点のほうが重要になる。
(中略)
では、私たちはいったいどのようなデータを比較し、その違いを生み出しうる要因を探し当てればよいのだろうか?
その答えを一言で言えば、ごく簡単だ。「目指すゴールを達成したもの」と「そうでないもの」の違いを比較しさえすればいい。あるいはゴールを達成するという表現は「自分にとってより理想的」とか「より好都合」と言い換えてもいい。
こういう風に説明すると、「それでは目指すゴールとは何なのか?」という質問をいただくこともあるが、その質問に対して私が返せる最も正確な答えは「知らんがな」である。あるいはもう少し紳士的に言うと、「それは人それぞれですね」ということになる。
つまり、統計学では「ゴール設定」が課題となってくるんですね。
この点については本書の中でも面白いエピソードが紹介されていて
「我が社(もしくはクライアント企業)には何テラバイトにも及ぶ膨大なデータが溜まっている。Exadataほどではないがサーバも導入した。で、ここから何かわからないだろうか?」
こうした相談を持ちかけてくる企業のことが、私はいつも不思議でならない。
「何がわかるかもわからずに、なんでそんな投資したんですか?」と正直聞きたい。
「ゴール」についてのイメージが定まらないまま、多分何かできるはずと思って統計用の高い買い物をしてしまった企業の話。
例えて言うなら、この話は高級なゴルフクラブを買っておいて、「で、これは何に使う棒なのかな」と言っているようなものですよね(笑)
何事もそうですけれど、ちゃんとゴールも決めないまま、せっせと高級な道具だけ揃えるなんて、そりゃおかしい話なわけです。
ゴールを決めるという主観的な作業
しかし、先ほどのゴール設定についての引用文章をよく見てみてください。
「自分にとってより理想的」、「より好都合」ですよ?
えっと・・・めっちゃ「主観的」ですよね。
そう、他でもない、この「統計のゴール設定は主観的に行われる」という点こそが、私の考える統計学の最大の弱点なのです。
考えてもみて下さい。
本書の中でも統計学の歴史の節で触れられている通り、IT技術が発展して、昔に比べたら統計は簡単に大規模に行えるようになったとはいえ、それなりにお金や労力がかかる行為です。
だから、みんなどうしても「役に立つであろうテーマ」や「利益のでそうなテーマ」について統計を取ろうとします。大規模な統計であればあるほど、大規模な予算や人員が必要になりますから、よりその傾向は強くなります。
例えば、博打かなんかで使うサイコロを振った時の出目についての統計や分析は行われても、サイコロの飛距離や回転数を調査する人はまあ稀でしょう。あるいは、競馬の勝ち馬の特徴を分析する人はいても、投げ捨てられた外れ馬券の滞空時間を調査する人はいませんよね。
だって、サイコロの飛距離や外れ馬券の滞空時間なんて調査したところで、特に役に立ちそうもありませんからね。
そうするとどうなるでしょう。
あえて根拠レスなことを言いますが、そう、統計のゴールの分布の統計をもし取ったとすれば、きっとめちゃくちゃ偏るんですよ。
先ほどのゴルフの例で言えば、ゴルフクラブを使って打ったボールの目指す先って、あたりまえですけどホールだったり、せいぜい途中のフェアウェイですよね。バンカーやOBや池ポチャを狙う人なんて、まあ、いないわけです。
つまり、「主観」「故意」「恣意」を嫌う「客観的」な統計学も、それが仕えるべき「統計のゴール」という主人は、まさしく「主観」「故意」「恣意」でできているという弱点があるのです。
その「ゴール」という自分勝手な主人は統計学の手の届かないところに居るために、統計学ではどうにもできない「目の上のたんこぶ」なのです。
学問が客観的であるために
最強の「客観的」な刺客だったはずの統計学が手出しできない「ゴール設定」という弱点に対して、学問がその理想とする「客観性」を実現するためにできることは一つしかありません。
それは「ゴールをとにかく各自で自由に考えること」です。
つまり「出来る限り何でも別け隔てなく調べること」です。
なるべく、一見「どうでもいいようなこと」さえ調べるべきです。「役にたちそうにないこと」だって気をつけるべきです。
多くの人がやっていることから、あえて離れたテーマを研究してみる人も必要なんです。
そうしてなるべくテーマが分散してランダムになるようにしないと、統計学が私たちに教えてくれた、学問の肝である「客観性」が発揮できないのです。
本書の中でもページを大きく割いて触れられていたように「ランダム性」という要素が統計学の「客観性」を担保する最大の特徴です。
しかし、「ゴール設定」についてはその「統計学」が闘えない領域である以上、私たちが私たち自身で出来る限りランダムになるようにするしかないのです。
つまり、各研究者の多様性こそが学問が客観的になるために最も必要な要素なのです。
実用的なのが学問ではない
以前、私が「ニセ科学」の記事でも主張した通り、学問に対する社会からの「実用的であれ」という圧力は凄まじいものがあります(代表的なセリフが「二位じゃだめなんですか?」でしたね)。
しかし、改めて主張しますけれど、学問というのは「探求する」のが本質であって、「役に立つかどうか」は二の次なのです。
そして「探求する」ことを第一にしているからこそ、「役に立つ」とも言えるのです。
例えば「役に立つ」という一つのゴールに全ての学問が追従した時点で、学問は多様性を失い「客観性」を失ってしまいます。
「客観性」を失えばどうなるかといえば、結局統計のゴールが「主観的」になってしまい、それこそ最初の「ゲーム脳の恐怖」の例で挙げたような危険な誤判断や早計な判断につながりかねません。
つまり、ややこしいのですが、統計学が私たちに教えてくれたことを踏まえれば、「役に立つ」ことを追求し「客観性」を失った結果、「主観的」になり、かえって「役に立つ」ことが阻害されるパラドックスさえ生じうるのです。
統計原理主義者の矛盾
「統計学が最強の学問である」と私が言いたくない理由はココにあります。
統計リテラシーが無いことも問題ですが、統計学などの「客観性」が強い学問を最強と信じるあまり、客観的でない意見をすぐに排除する、いわば統計原理主義者というような人も見受けられるからです。統計リテラシーが強すぎる人と言ってもいいでしょう。
例えば、「◯◯が△△だから、□□なんじゃないかなー」という主張を誰かがした途端、「その根拠は?」「◯◯の定義は?」「どこにそんなデータがあるの?」と問い詰め始め、ちょっと言いよどむと、「ほーら、客観性を欠いた、主観的な意見だね、デタラメ言うな」などと彼らは断じます。
しかし、先ほどから述べています通り、私たちが神ならぬ人である以上、「統計のゴール」は主観的なものにしかなりません。そしてそのゴールを目指すためには、まず「◯◯が△△だから、□□なんじゃないかなー」という主観的な仮説を立てないと話は進みません。
ですが、統計原理主義者は客観性を重んじるあまり、この仮説の段階で「根拠となるデータ」を求め、客観的でないとして、それを否定することがしばしばあります。
それが論文や学会発表などの「客観性の祭典」ならいいでしょう。そこでは「客観的であること」が至上のルールだからです。ただ、その客観性のリング外でさえ、暴力的に「客観性」の物差しを振るう人はやはり居るのです。
そう、逆説的ですが、客観的でないとして主観的な意見を排除すればするほど、テーマの多様性が失われて、学問全体としては主観的になってしまうのです。
これこそが統計原理主義者の矛盾です。
ゴルフの例えで言えば、すごく上質のゴルフクラブを持っていてそれを振っていい球を飛ばすけれど、ホールの位置を全然違う場所と思い込んいる可能性があるという感じです。
なぜって、世界は本当はゴルフのように「ホールの位置」は事前に決まっていないので、下手をするとグリーンの中にホールが無くて、バンカーの中にあってもおかしくないからです。グリーンの方にだけ打ち込んでも実は全然ホールに入っていないということも起こりえます。
だからこそ、バンカーでもOBでも池でも色んなところに打ち込むしかないのです。
でも、一人一人はどうしても主観的、つまり一打ずつぐらいしか打てないのですから、みんなでなるべく色んな所にボールが飛ぶように色んな向きに打ってみるしか無いのです。
統計学は最強の・・・
本書の筆者も「ミシンを2台買ったら一割引きで、売上が上がるのか?」という節で、一見馬鹿げたような仮説をすぐに「誤り」と決めつけてしまうことの愚かさを説いています。
ですから、きっと、筆者も、優れた統計家ほど「根拠は?」「データは?」などと問い詰めるばかりのような統計原理主義にならず「ゴールの設定は人それぞれ」と「多様な主観的な見地」も大事にする、と潜在的に主張したいのではないかなぁと、私は本書を読んで感じました。
その上でまず統計リテラシーの普及のため、「あえて」「統計学が最強の学問である」と掲げた筆者。
だからこそ、私はその「あえて」の気持ちを組んで、「あえて」「統計学は最強の学問ではない」と主張したいのです。
もちろん、統計学は非常に重要で有用な学問です。
客観性を担保したい時には、非常に大切な存在です。
学問にとってはとてもとても欠かせない全ての学問に共通した基盤であり、武器なんです。
ですから、統計学は「最強の学問」ではなくて、言うならば、
「統計学は最共の学問である」
そして
「統計は学問にとって最強の武器である」
のです。
P.S.
相変わらずのぶっとんだ主張を、相変わらずの長文でお送りいたしました(/ω\)
ちなみに、どんな仮説も誤りと即断してはいけないからこそ、実は「ゲーム脳の恐怖」仮説も、本当は上の理屈では否定されたわけではありません。便宜上、「誤判断」扱いさせていただきましたが、本当は本文中カッコの中にも示したとおり、「まだ結論を断定するには早い早計な仮説」でしかありません。
だから、「ゲーム脳の恐怖」を主張してはいけないとは言えないのです。
しかし、あまりにも真実であったり、証明されたものであるかのように強く主張しすぎれば、やはりそれは客観性を損ないますから、そこまでいくと、批判されても仕方がないというのはあるのですけれど。
なので、もし読まれた方の中に「ゲーム脳」関係者の方がいらっしゃっても、怒らないでくださいね(;・∀・)
統計リテラシーの解説については、ブログである都合上、ちょっと理屈を端折っているとこもありますが、そこはご容赦下さい。「結局統計学ってどんなんなの?」と興味がわいた方は是非本書を手にお取りいただければ!