準備をすること、計画すること
自慢になるのかどうか分からないですが、私は「準備が良い人間」なんだそうです。
「要領が良い」と言う方が通りがいいかもしれません。
確かに私は、「だいたいこんな感じでやればちょうど上手くいくかなぁ」「多分、こういうところがトラブルになりやすそうだから前もって潰しとこう」「こう言ったら、向こうが多分こう反応するから、そこでこう答えてー」とか、色々な想定をしつつ計画を立てるのが普段から大好きなんですよね。
私がボーっと考えるのが好きなのも、「こういう可能性もあるんじゃないかなー」とか「こうなったらどうしよう」とか、ありとあらゆる状況を仮定してアレコレ考えているせいでボーっとしてるんですね。この時間がすごく楽しくて、そうこうしているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまいます。
好きなものこそ上手なれと言いますか、私自身、この計画能力のおかげで、勉強に仕事と、様々なピンチを上手いこと切り抜けられた実感があります。
これは小さい頃からそうだったようで。
ある日、先生が「あー、大分前に配ったあのプリントに載ってたんだけどなぁ」といえば、「はい、コレですよね、先生。今日は多分要りそうだったので持って来ました」とすかさず出して、たいそう驚かせたこともありました。
「ふっふっふ、そんなこともあろうかと」といって、ジャジャーンと出すのが、もうほんと快感だったんです(笑)
そんな感じで生きてきたので、周囲からは「用意周到」とか「抜け目ない」とか、なんだかひどいことを言われることもありました。。。
計画的=真面目?
さて、こんな風に「あらゆる可能性を考えて準備をする」「計画をきっちり立てる」と言うと、なんだか杓子定規でカチカチの真面目人間を想像されるかもしれませんが、全然そんなことはありません。
自分で言っても説得力が無いかもしれませんので、他人の評を挙げておきますと、例えば「最初、真面目なA型の人なんだと思ってたけど、今となってはズボラでマイペースなB型人間にしか見えない」なんて言われます。
ええ、ほんと適当な人間なんですよ・・・。
でも、「計画」を成すのに一番必要なのって、そういう「適当さ」だと私は思ってるんですよね。
例えばガッチガチの計画を立てる人にありがちな失敗って、「何月何日までに何%やる」とか「この日にコレをやる」とか、すっごく綿密な計画を立てた結果、「思ったより進まなかった」とか「急に問題が起きた」とかで、計画の中に一杯用意しておいたチェックポイントを上手く通り抜けられずにパニックになるってことがあるような気がします。
「まずい、この日までにここまで進んでないといけなかったのに・・・」「きゃー、今日アレする日のはずだったのにー」と、混乱の中、発揮できる能力も発揮できなくなり、さらに計画が遅れて・・・結局破綻。。。
あるあるですよねー?
私が思うに、この「綿密な計画」の最大の欠点は「想定外のことが起きる可能性を考えてないこと」です。
もっと言うと「計画が破綻する可能性を計画にいれてないこと」ですね。
だって、そうですよねー、人がいくら色々考えたって、なかなかどうして世の中というものは予想外のボールを投げてきます。
自然現象もそうですし、社会の人と人の動きなんてのも、すっごく複雑で、まだまだ現代科学でも解明できてない、人知を超えた存在です。
それなのに自分の計画が全ての可能性を網羅できると思うなんて、すごく傲慢なことではないでしょうか。
だから、最初から「予想外のことが起きる」という可能性を「計画」に盛り込むんです。
「そんなんまともな計画にならへんやんか」と仰られる方、全くその通りです。
そう、ですから、「適当な計画」を立てるんですよ(笑)
いかにスッカスカに作れるかが、「計画」の最大の醍醐味なんだって、私は思っているんです。
計画するにあたって決めること
私が「計画するにあたって決めること」というのは、シンプルです。
それは「今、目指そうとするゴール」と「ゴールに行くために、今やるべきこと」の2つだけです。すなわち「今、どうしたいのか」「今、どうすべきなのか」という「今」に関することだけです。
例えば「スーパーに買い物に行く」というゴールを考えたなら、「玄関に向かう」が今やることですね。
これはもっと細かく見れば、「玄関に向かう」というゴールを考えて、今「財布を持つ」とか「椅子から立ち上がる」ことをやる、ということにもなります。
「ゴール」のための「手段」がまた「ゴール」にもなって、その「手段」がある、そんな感じですね。
つまり、「計画」の中に「計画」があって、その中にまた「計画」がある、そんな多重の入れ子構造です。マトリョーシカです。
それで、その「スーパーに行く計画」、ちょっとずつチェックポイントをクリアして、スーパーに着々と向かっていたところ、いつもの道が工事で通行止めだったとします。これは、「いつもの道を通る」というチェックポイントが破綻したことになります。
そんな時皆さんどうします?
・・・まあ、回り道しますよね(笑)
別に「うわぁ、計画が破綻した、もうダメだ!!!」ってパニックになることなく、すぐに「あらら、じゃああっちの道でー」って考え直しますよね。
「計画」って多分、こういうことなんだと思うんですよ。
私が思うに、大事なのは、「計画は破綻するものだから、適宜計画を立て直す」という「計画」をすることです。つまり、最初から「計画」なんて破綻してナンボとして考えておくのが、「計画」の最も大事なとこなんです。
分かりやすく言えば、「◯月◯日:計画を立てる」で毎日ギッシリ埋まっているのが私の「夏休みの計画表」なんですよ(笑)
「計画」は惜しまずどんどん「使い捨て」にするのがいいんです。
「何言ってるのか分からない」と狐につままれたような気分の方もいるでしょうけど、こう考えてみて下さい。
これは、「適宜、相手の位置を確認して方向を修正する誘導ミサイル」と、「発射する前に綿密にがんばって色んな要素を計算して撃つ方向を定めた大砲」と、どっちが当たりやすいかというお話なんです。
困ったことに、相手は静止しておらずランダムに動いています。
そりゃ大砲も当たるかもしれないですが、きっとミサイルの方が当たりやすいですよね。
性質上、「綿密な計画」は大砲で、「臨機応変な計画」がミサイルなのは言うまでもありません。
だから、本当に「目標に当てたい」のなら、ミサイルのように「最初に撃った方向じゃどうせ当たらないだろうから、今後も向きを変える予定」にしておくのが良いのです。
計画は守るべき?
このミサイルのような臨機応変な計画というのは珍しいものではなく、先ほどのスーパーの例でも示したように、実は私たちは普段からそうやって臨機応変に生きています。
何も特別な行為ではなくて、どちらかというと日常的な行為なんです。
なのに、不思議なことですが、「計画を立てよう」と言うと、急にガッチガチになっちゃう方が居るんですよね。
まあ、もちろん、ガッチガチで綿密な計画を立てても運良く計画通りにいったらいいんです。確かにそういうこともないとは言いません。
でも、予想外のことで上手く予定通りに行かなかった時、こういう方が何をし始めるかと言いますと、なんとか本来の計画通りになるように無理矢理追いつこうとするんです。
予想外の障害に対して「計画通り」がんばって乗り越えようとするんですよ。
これって、スーパーの例えで言えば「工事中の通行止めの道を突き進もう」としているようなものです。傍から見れば、そのバカバカしさに気づくのですが、案外「綿密な計画」を立てた当の本人は、そのことに気づかないのです。
なぜそうなってしまうかと言えば、おそらく、「計画は守らねばならない」という不思議な強迫観念を持ってしまっているからです。
どんなに予想外のことが起きようと、「計画通りでないと」と思い込み、方向を変えられなくなっているのです。
もはや、「計画を守ること」がこの方々の「ゴール」になってしまっているんです。
でも、考えても見て下さい、本来「計画を守ること」って「ゴール」でもなんでもなかったはずなんですよ。
むしろ「ゴール」を達成するための「ただの手段」だったはずなんです、「計画」なんて。
なのに、それをあまりに真面目に作りすぎた結果、綿密に組み過ぎた結果、絶対であると信じすぎた結果、愛着が沸きすぎて、いつのまにか「計画=ゴール」と刷り込まれてしまうんです。
それで、ただただ何が起きても、「計画通り」突き進むんです。
途中でやっぱりこのままじゃ目標に当たらないことに薄々気づいても、「いや、最初にあんなにがんばって弾道を計算したじゃないか」と気づかないふりをします。
着弾するまで方向を変えられずずっとそのまま飛び続けてしまう砲弾のように。
まあ、本人だけが目標に失敗するならいいのですが、こういうガッチガチの方が上司だったりしますと、部下からの「不測の事態なので計画を変更しては」という提案に「何言ってるんだ、計画通りに行かないのはお前らの努力が足りないからだろう!」などと拒否をして、一緒に破滅に突き進むこともあるので困ったところです。
「計画」が支配する社会
このように、個人的には「ガッチガチに計画を固めて計画通りに行くように必死で頑張る」というのはあんまりいいことではないと考えているのですけれど、世の中的にはなんだかんだでこういう「ガチガチ計画」な方が多い気がしています。
例えば、もうすぐ子どもたちは夏休みでしょう。
そこで定番の宿題として出される「夏休みの計画」。
これって、計画をきっちり立てて、それが計画通り実行されたら褒められるじゃないですか。
このようなことが原体験になって、「計画は守らないといけない」となっているのかもしれません。
そして例えば、人生プランやキャリアプラン。
何歳までに結婚して、子供を産んで、マイホームを買って・・・。
あるいは
ちゃんとまともな大学に入って、ちゃんとまともな企業に就職して、順調に昇進して、年収はいくらで・・・。
私たちは無意識のうちにそんな「計画」を身の内に秘めてしまっています。
これは自分で考えたわけではなく、成長するうちに自然と社会から刷り込まれたものなので、正確には「計画」ではないのですが、一回、頭の中でそれを受け入れてしまうと、自分の「計画」同様になってしまいます。
それが、生きていれば、うまくいかないことなんて当然起こりえます。
「計画通り」にいかないと、焦り・苛立ち・怒り・悲しみ・落ち込みと負の感情が次第に沸き上がってきます。それも、意識下に「計画通りにいかないといけない」というルールが埋め込まれてしまっているからではないでしょうか。
口を開けば「独身でいいや」と言ってる方でも、実際のところは心の中にそんな「計画失敗のコンプレックス」を抱えている人は少なくないでしょう。
また、たとえ個人の中でそれを飲み込み乗り越えたとしても、家族や友人などなど周りの人から「なぜ計画通りにしないの?」という圧力がかかります。
「なんで結婚しないの?」
「なんで子供作らないの?」
「今の世の中大学ぐらい出てないと生きていけないぞ」
「フラフラしてないで、ちゃんと会社に勤めて地に足をつけて生きなさい」
これらの「計画通りにしなさい」という言葉が、「計画通りになってない方々」にとってどんなに暴力的なことか。
どれもこれも、「計画通り」の強迫観念のせいだと私は思うんです。
みんな「計画を守らないと」と思っているから、そう信じてしまっているから、簡単にそんな言葉のナイフが飛び交って、傷つけ・傷つけられてしまうんじゃないんでしょうか。
この間話題になった、某フィギュアスケーターの出産告白の話もそうです。
「父親が不明なんておかしい」とか「シングルマザーなんて子供がかわいそう」とか、私からすれば驚くような誹謗中傷が彼女になされていました。
それって結局、自分の「計画」を人に押し付けてるだけじゃないでしょうか?
社会のみんなが納得するような「計画」を「守ること」こそが正しいって、決めつけてしまっているだけなんじゃないでしょうか?
自分の計画を立てる
そもそも、人生プランやキャリアプランなんて 何十年にも渡るとんでもなく長期の計画です。不確定要素が多すぎて、明日の天気や株価さえ当てられない私達に到底予想できるものではないでしょう。
それを10代とか20代の時に個人で計画して、その「計画通り」に生きることが合理的とは私にはとても思えません。
予想外のことが「まず確実に」起こるのだから、その都度計画を修正するつもりで臨むぐらいがちょうどいいと思います。
そしてまた、先ほども触れたように、何とはなしに「人生計画」が社会から刷り込まれていることにも違和感を覚えます。
自分で考え心底望んだ「計画」なら、「計画通り」に必死で生きるのは良いでしょう。でも、それがもし他人から刷り込まれた「計画」で、それを何となく「計画を守らないと」と思って生きているのだとしたら、そして、それで幸せになるのならまだしも、計画に縛られ窮屈になって苦しい思いをしているのだとしたら、そんな悲しいことって無いと思うんです。
「計画」を刷り込まれてしまった時、人が忘れてしまいがちなことがあります。
それは「目標(ゴール)」です。
本来、「計画」は「目標」に至るための「手段」です。
だから、自分で計画を立てる時は、自然に「目標」を意識しています。
でも、「計画」を刷り込まれてしまった時は、「守るべきもの」としてスッと私たちの目の前に「計画」が現れます。その「計画」が「何を目標としているのか」を意識することなく、ただ「守るべきもの」として私たちの心の中に染み付いてしまうんです。
これが本末転倒なのは言うまでもありません。
だから、私が提案したいのは、今一度「自分の計画を立ててみること」です。
もちろん私が言うのですから、計画はガッチガッチでなくていいんです。
ただ、「自分にとって最も大事なゴールって何?」、「自分がやりたいことって何?」、これを確認して欲しいんですよ。
そして、そのゴールに自分の顔がちゃんと向いているか、つまり自分がちゃんとゴールに向かって歩んでいるのか、それを確認して欲しいんです。
確認した結果、今のままで大丈夫な方はそれでいいと思います。万が一もともとは刷り込まれた「計画」であっても、一度ゴールを確認して反芻したなら、それは多分バッチリ自分の「計画」になったと思います。
でも、確認した結果、自分がゴールの方向に向いていない気がしたなら、それは多分計画を修正すべき時なんだと思うんです。それは、「計画」がもはや自分のものでなくなっていた証拠に他ならないのです。
「死ぬ準備」をする
さて、長々と書いて来ましたが、私自身まだまだこれらのことを上手くできているわけではありません。
ただ、最近、このような「自分の計画」をすごく意識するようになってきたのは事実です。特に、「計画というのは基本的にはままならぬもの」ということに気づいてから、すごく楽になりました。
「上手く行かなかったら、その時また考えたらいいか」、そう思っていれば意外と色んなことがスッキリ考えやすくなったんです。
「計画をきっちり守る必要」が無いのですから、一見無理そうな目標でも目指すことができます。「上手く行かなくてなんぼ」なんですから、とりあえずやってみたらいいってことに気づいたんです。
これが「計画をきっちり守らないと」と思い込んでいるうちでは、「一応実現性のある目標を」ということで、無難なものに落ち着いてしまう可能性は否めなかったでしょう。
そして、目標のための計画も「今やること」しか考えないので、計画自体のサイズが軽く、気持ちが重くなりません。
小さな一歩でも、一応目標に向かっている実感が得られるのであれば、それはすごく幸せなことだと思うんです。
そんな中、今考えているのは「死ぬ準備」についてです。
実際のとこ私はまだアラサーなので、早いと仰る方もいるかもしれません。
でも、やっぱり考えてしまうんです。
「計画というのは基本的にはままならぬもの」と言いましたが、その計画が破綻する最たるものが「死」だからです。
「明日死ぬとしたら何をする?」
そういう心理テスト的な質問は有名ですが、これはまあ「明日死ぬ」って分かっている点で、極端な状況であることは否めません。
ただ、
「お爺ちゃんお婆ちゃんになるまで死なないとして何をする?」
というのも、それと同じぐらい極端な想定ではないでしょうか。
だって、
「今苦労したら、将来安泰だよ」
とか、
「老後の楽しみを夢見て」
とか、
そんな「計画」が世の中にはいっぱいあります。
でも、それって「いつ私たちは死ぬか分からない」という要素を忘れてしまっていないでしょうか。
医療が進歩して平均寿命が伸びて、死の実感をする経験が減って、「私たちは少なくとももうしばらくは死なない」って思いこんでないでしょうか?
ほんとは、そんなはずないですよね。
私たちはいつか死にます。
そして、それは明日かもしれないし、下手をすると今日かもしれない。
悲しいけれど、そういうものですよね。
だから、
「いつ私たちは死ぬか分からない」
その不確定要素を考慮しない「計画」っておかしいんじゃないでしょうか。
もちろん逆に「死なないかもしれない」ですから、過度に「死」を恐れる必要は無いと思います。
でも、やっぱり、どんなに不快でも、考えたくなくても、今日よりも明日、今よりも次の瞬間、私達が着実に「死」に向かって歩んでいることは事実なんです。
一発で、全ての計画を破綻させる「死」。
計画というのはままならないものだからこそ、その可能性に目を背けては行けないんだと思うんです。
「死ぬ準備」、多分そこまでやってこそ、「計画」なんじゃないのかなあと、そう感じる今日このごろです。
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↑今回の話は、けっこうこの時の話にかぶってますー。
P.S.
はい。
本当は最後の節だけ書こうと思っていて、パパパッと書こうと思っていたのですが、どんどん長くなってしまいました・・・(;´∀`)アイカワラズデスネ
と言いつつ、追伸欄で、流れ上、書き足りなかったことをちょっと書きます(笑)
えーと、旅行に行くときとか、私は「準備が良い方」なので、それなりに計画はして行きます。
でも、旅程をキチキチに詰めるのはあんまり好きじゃないんですよね。
何でしょう、あんまりツメツメにしても、どうせ想定外の事態が起きて予定変更を余儀なくされたりするでしょうし、それに想定外の事態が起きてなくてもどうせ「自分のやりたいことがその時にはまた変わってるだろう」と思っているからです。
旅先に行ったら、「あ、あっちにいってみようかな」とか「ここにもうしばらくいたいな」とか、その場に行って初めて感じる「やりたいこと」ってあるじゃないですか。そんな時にキチキチの旅程にしていると、そんな思いついた「やりたいこと」を諦めないといけなくなっちゃいますよね。
私はそれが嫌なんですよ。
「キチキチの計画」って、実のところ「昔の自分が未来の自分の自由を奪うこと」ですよね?そんなん、未来の自分に対して申し訳なくて私にはできません。
それに、「未来の自分」の方が、その場・その時に居るんだし、よっぽど適切な選択をするんじゃないでしょうか。
私は「未来の自分」を自由にしてあげたいし、そして、何だかんだですごく信頼してるんですよ。
だから、私の「スッカスカの守らなくていい計画表」は、そんな「今の私」から「未来の私」へのバトンなんです。
「未来の私」がそのバトンを受け取って「あははー、そういえばあの頃そんな計画考えてたなー」ってちょっと懐かしくなって、クスっと微笑んでくれれば、そして「想定外の事態」を楽しむ余裕も与えてくれたことに感謝してくれれば、それで十分なんです。