雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

お花見のジレンマから、「自由」について考える

桜の季節ですねー。

 

ブログ名に「花見」が入っている通り、私はとても桜が好きで、毎年このシーズンはどこかに桜鑑賞ツアーに出かけます。桜前線予報を睨みながら、万全の作戦を考えようとして、夜も眠れないこともしばしばです。

 

このように「花見」は、私にとって一年の中でも有数のウキウキイベントなのですが、いつもちょっと悩みの種もあるのです。

 

それは、いわゆる「お花見」――宴会をしている人たちです。

 

私はあくまで純粋に桜を鑑賞するという「花見」派で、ポピュラーな桜の下で宴会をするという意味での「お花見」派とは違うんですよね。

 

きれいなのにはかなげな、桜のあのせっかくの風情が損なわれる感じがして、わざわざ桜の木の下で宴会している人たちは、私からすると邪魔者以外の何者でもありません。

どの角度で桜を見ようとしても絶対に視界に入りますし、何より騒いでいるのでとてもうるさいのです。

だから、宴会型の「お花見」をしている人がいると、私のようにじっくり静かに桜を眺めたいという鑑賞型の「花見」は自然に妨げられてしまいます。

 

――ああ、ここの桜並木は地面に並ぶブルーシートや立ち込める煙や、湧き上がる喧騒が無かったらどんな風なんだろう

 

宴会をしている人がいるせいで、私はこんな風に「純粋な状態」を想像する他無いのです。

 

毎年これが私にとって、とても歯がゆくて、とても切ないところなのです。

 

 

お花見のジレンマ

さて、私怨をつらつらと書きすぎたせいで、そろそろ全国に何百万といらっしゃるであろう宴会派の方々に怒られそうですので、ちゃんと説明しておきますと、私はこの話で宴会型の「お花見」をやめろとか、禁止しろと言いたいのではありません。

 

人間、人それぞれですから、私が「桜をじっくり見たい」という欲望を持っているのと同じように、「桜の下でみんなでお酒を飲んで騒ぎたい」という欲望を持っている人もいて当然です。

どう思うか、どうしたいか、はそれぞれの自由ですし、そのどちらに優劣や良悪はありませんよね。

また、「自由」という権利には「他人に危害を加えないなら範囲に限る」という原則がありますが、宴会型の「お花見」を催すことは、かなり平和的な内容ですから、とてもその原則に触れるとは言えないでしょう。

 

だから、「自由」を重んじる立場から言えば、全く宴会型の「お花見」を制限する言われはないのです。

 

しかし、現に宴会型の「お花見」派の人たちが一度桜の下でどんちゃん騒ぎをすれば、私のような鑑賞型の「花見」派の人たちの「純粋に桜を見たい」という自由は実現できないことになります。

たとえ、何ら危害を加えられたり、権利の直接的な侵害があったわけではないのにもかかわらずです。

 

こんな何とも困ったお花見のジレンマに、私は「自由」のジレンマを見るのです。

 

 

「強い自由」と「弱い自由」

「自由」が並んだ時、あるいは衝突した時に、明らかになることがあります。

 

それは、「強い自由」と「弱い自由」の存在です。

 

言葉としては、「能動的自由」と「受動的自由」でもいいですし、「優性自由」「劣性自由」でもいいかもしれません。(もしかしたら、どこかにちょうどいい専門用語があるのかもしれませんが、私個人で勝手に考えてる話なのでそこはご容赦下さい)

 

「強い自由」とは、宴会型「お花見」のような、実行すれば実現する自由です。あなたが「何かをしたくなれば、してもよい」という単純で分かりやすい自由ですね。多くの場合は「自由」と言えばこのイメージだと思います。

 

一方、「弱い自由」とは、鑑賞型「花見」のような、「強い自由」が使われていない時に初めて実現可能な「自由」です。確かに、「したくなれば、してもよい」のではありますが、誰かが「強い自由」を行使した瞬間に「したくでも、できない」ものに変わってしまうという「弱さ」があるものです。

 

その欲望がどのような内容であるかによって、この「自由の強弱」が自然に決まってしまいます。そして、実際に今回の花見のジレンマのように、その強弱に伴って、実現しやすさに差ができてしまうのです。

 

すると、「弱い自由」の立ち位置にあたる欲望がある人は、なかなかその欲望を実現することができなくなります。なにせ、他の方々が自分より「強い自由」を行使されると、すぐ自分の「弱い自由」が行使できなくなってしまうのですから。

 

そんな「弱い自由」の人が、「したかったらしてもいいよ」と言われても「そういう条件が整わないじゃん!」となって全く「自由」な気はしないでしょう。

 

綺麗な桜があって純粋な姿を写真に収めたいけど、木の下で宴会をしている人たちがいてちょっとはずれてほしい、そんな時、もし宴会をしている人たちに「俺たち何も悪いことしてないし。別に君が桜を見るのを直接邪魔してるわけじゃないんだからさ」と言われたら、確かに全くその通りなので、言い返せません。

 

でも、何となーく、何とも言えない複雑な気持ちになりませんか?

 

 

「弱い自由」の味方「ルール」&「マナー」

このように、「弱い自由」は、自然な状態のままではなかなか実現できません。

それでは「自由といわれても、実質、全然自由じゃないじゃない!」と不満が溜まる一方でしょう。

 

そんな「弱い自由」派の方々の味方が「ルール」と「マナー」です。

 

「ルール」は、「強い自由」を禁止することで、難題だった「弱い自由」を行使できる環境を産み出します。

「マナー」は、「『弱い自由』をしたい人のために、あまり『強い自由』を行使しないように」とやんわりと善意にはたらきかけて「弱い自由」を行使できる環境を成立させやすくしてくれます。

 

このように「ルール」と「マナー」は「強い自由」の実行を抑制することで、「弱い自由」の実現性を高めてくれます。

 

花見の例で言えば、「この広場では宴会禁止!」と「ルール」を定めたり、「多くの方にじっくり桜を楽しんでもらうため、ここでは宴会をするのはご遠慮ください」という「マナー(空気)」を作り上げたりすれば、桜の下での宴会が行われなくなり、私のような鑑賞型「花見」も実現しやすくなるでしょう。

 

 

これで、ようやく「弱い自由」を実行できるようになって、めでたしめでたし・・・と言いたい所ですが、そうは問屋が卸しません。

 

というのは、どんなに綺麗事を言っても、「ルール」や「マナー」はあくまで「強い自由」の犠牲のもとに成り立っているからです。

「ルール」や「マナー」は、「弱い自由」を守るため、大切にするため、と言いながら、もう一方の手では間違いなく「強い自由」を侵しているのです。

 

 

「自由」のジレンマ

例えば、宴会型「お花見」派の皆さんは、私が「桜をじっくり鑑賞したい人のために、木の近くでの宴会は控えたほうがいいと思う」と言ったとしたら、「自由の侵害だ!」と反発するでしょう。あるいは、せっかくの桜の季節、桜の名所の広場でお花見宴会をしようとしたら、「今年から宴会は禁止にしました」とポスターが貼ってあったとします。これも、やっぱり「何も悪いことをしようとしているわけではないのに。自由の侵害だ!」と反発するでしょう。

 

では、そんな皆様、お花見から離れて、次のような例ではどうでしょう。

 

 

■好きな所でタバコが吸いたいなという人が、「またここも禁煙になったか・・・」と嘆いている場面。

 

■赤ちゃんを連れて海外旅行中、赤ちゃんが大声で泣きだしてしまい、「海外旅行に子どもを連れてくのはマナー違反!」と糾弾されたという場面。

 

■他に大騒ぎで会話をしている人はいるのに、自分が電車内で電話をしていたら「マナー違反!」と怒られたという場面。

 

■個人で楽しむ範囲でダビングしたいだけなのに、ちゃんと個人用に購入したDVDでもダビングが禁止になったという場面。

 

■差別的発言をしている人が、「そんな発言には言論の自由はない」と責められている場面。

 

■有給休暇を取ろうとしたら、職場の空気が「まさか休み取るわけないよね」という雰囲気で、取るに取れないという場面。

 

■混雑した電車に赤ちゃんをベビーカーで連れて乗ろうとしたら、「わざわざこんな混んでる時間帯に乗るなよ」と責められるという場面。

 

■本や文書を書いた時に、特に差別的意図はなかったのに、言葉の端のいわゆる「差別用語」が規制に引っかかって、その対応におおわらわという場面。

 

 

いかがでしょう。

何となく気持ちが分かるもの、そして、分からないものがあったのではないでしょうか。

 

薄々お気づきかもしれませんが、これらはどれも「強い自由」と「弱い自由」の対立の構図です(例えば、喫煙や、赤ちゃんとのお出かけなどが「強い自由」です)。

 

で、それぞれの項目に具体的にどう思われたかはポイントではありません。

ポイントはそこではなくて、皆さん、時に応じて「強い自由」に賛成してみたり、「弱い自由」に賛成してみたりと、肩入れする側がばらけたのではないかという点です。

 

「強い自由」に賛成している項は、「マナー」や「ルール」に対して「そんなの自由の侵害だろ」と思いませんでしたか?

 

そして「弱い自由」に賛成している項では、「マナー(空気)」や「ルール」に対して「そうだよね、それを守るのは当然だろ」なんて思いませんでしたか?

 

私だって、花見の問題については、宴会の人たちがいなくなってゆっくり桜を鑑賞できたらいいのにとか、タバコは禁止すべきだよねなど、「弱い自由」を望んでいる一方で、項目が違えば、空気を読まなくてよい有給休暇の自由な取得、言論の自由、電車内での電話の自由などの「強い自由」を望んでいるのです。

 

そう、結局のところ、私たちは、自分たちの都合で、「マナー」や「ルール」を称賛したり、けなしたりして、自分の「自由」を優遇するよう図っているだけなんです。

 

普段「マナーやルールは大事」なんて言っている人が、自分の都合で、時には「これはルールの方がナンセンスだから守らなくて良い」なんて言ったりします。

または、普段「俺は縛られない自由な生き方が好きなんだ」なんて言っている人が、自分の都合の悪い発言には「それは人として言ったらあかん発言やろ」なんて言ったりするのです。

 

私たちは結局そんなドロドロとした欲望に左右されていて、ダブルスタンダードを避けられないのが現実なんだと思います。

 このように各個人の心の中や、社会の中で、「強い自由」と「弱い自由」が行ったり来たりするのが冒頭で上げた「自由のジレンマ」 の構造なのです。

 

 

「自由」の強さのバランスを取る

「タバコは周りの人に害があるから別でしょ」とか「携帯電話は医療機器の誤作動の危険があるから別でしょ」など、先ほどの項目について個々の条件が違うから仕方がないというご意見もあるでしょう。

でもだからといって、「バーベキューは煙が健康に害があるからさけるべき」という「マナー」や、「電車内での携帯電話の使用は逮捕されることになりました」なんていう「ルール」の形成までいったらやり過ぎですよね。

 

極端な話、「強い自由」を重視しきった「映画館で上映中いくらでも騒いで良い」とか、または逆に「弱い自由」を重視しきった「映画館で上映中、一切物音を立ててはいけない」という「空気」ができたらたまりませんよね。

 

そうならないために、私たちができることは、「強い自由」と「弱い自由」のどちらにも肩入れすぎず、バランスを取ることしかありません。

それはつまり、自分が「強い自由」「弱い自由」どちらの側の立場の時でも、少し我慢する必要があるということです。

あなたがどんなにタバコが嫌いでも、「もし自分がタバコが好きだったら」と少し想像する気持ちが必要です。そうすればさすがに、「タバコ禁止令を出して、この世からタバコ消滅させろ」という意気込んでいたのはやり過ぎかもと思えることでしょう。

 

そしてまた一方で、バランスを取るというのは、自分が「強い自由」「弱い自由」どちらの側の立場の時でも、我慢しすぎない必要があるということです。

どんなに有給休暇を取らせない空気が強い社会であったとしても、あまりにもその「自由」が侵害されているのであれば、その「マナー(空気)」に対抗する気持ちを出していかないといけないのです。

 

 

 

(図)「強い自由」と「弱い自由」のバランス。この天秤は時と場合によってかなり揺れ動いています。

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「ルール」と「マナー」を考えよう

上でもいくつか例を挙げてみましたが、「強い自由」と「弱い自由」の対立という「自由のジレンマ」は、多分この世の中で無数にあります。

もしかするとほとんどの社会問題の根底にはこのジレンマがあるのではないかとさえ思います。

 

だから、様々な社会問題を考える上で、「自由のジレンマ」を意識すると見えてくるものもあるのではないでしょうか。

 

「自由のジレンマ」をなるべく治めるには、先ほど述べたように「強い自由」と「弱い自由」のバランスを取るしかありません。

「強い自由」と「弱い自由」はそれぞれみんなの心の中に自然に生じるものですから、私たちが私たちで考えていじれるものは、「ルール」と「マナー」の重さしかありません。

だから、「強い自由」と「弱い自由」の人どちらもがそれなりに欲望を満たせるよう、「ルール」と「マナー」がどちらかに行き過ぎないようにしっかりと私たちは調節しないといけないのです。

 

時に、「ルール」や「マナー」は絶対視されがちですが、私はあくまでそれは人の「自由」のジレンマを調節するための道具でしかないのだと思います。

それをわきまえた上で、しかし必要なものですから、軽視もしてはいけないのだと思います。

 

これは言うが易しというもので、実際にはこの調整は非常に難しいです。

 

でも、難しいこと、だからこそ、私たちは日々、真剣に考えないといけない、そう思うのです。

 

 

 

 

ですから、もしよろしければ、皆様。

 

お花見の際には、花々の綺麗な桜色と、地面に敷かれたシートの人工的な青さを見比べて、ちょっとだけ「自由」について考えてみてみませんか?

 

この桜を見たい人、この桜の下で飲みたい人、どちらも気持ちよくなるためにはどうするべきなのか。

 

ちょっと哲学的な感じですし、これはこれで風流かもしれませんよ?(/ω\)

 

 

 

 

 

P.S.

実際には、桜の名所は、宴会OKのところと宴会禁止のところがあるのですけれど、やっぱり宴会OKのところの桜も綺麗なので、純粋な状態を見てみたくてどうしようもなくなるのですよね。いつも大賑わいなので、なかなかどうしても夢の中で想像するしかできないのですが・・・。

いえ、その分、宴会している皆様が、楽しんでらっしゃるのですから仕方がありませんが、個人的にはやっぱり少しだけ残念なんですよね。

ま、本気で宴会ダメとは言いませんから、せめてブログでぐらい、愚痴らせてくださいネ(´・ω・`)