なぜ私たちは自分の意見を主張するべきなのか
今日は「なぜ私たちは自分の意見を主張するべきなのか」というお話です。
皆さん、自分の意見って持っていますか?
おそらく持ってないという方はいらっしゃらないと思います。
では、それをちゃんと主張している方は?
もしかすると、思ってはいるけど、感じてはいるけど、はっきりとは外に出してない、そんな方も多いのではないでしょうか。
私も昔はそうでした。
色々考えて思ってはいるけれど、それをはっきりと主張したことはありませんでした。
ですが、ご覧の通り、今はブログを持って、正直言って短いとは言いがたい(汗)記事をせっせと書いています。
自分の意見の主張をしています。
私のブログ、幸いにして私にとっては身に余る光栄と言っても良いほどの常連の方々もいらっしゃるものの、やはり決して有名ブログでも、人気のブログでもありません。
先日、「どんなにがんばって書いても多くの人に見てもらえなければ意味が無い」そんな意見を目にしました。
そういう意見の方からすれば、私のしていることは無駄に見えるかもしれません。
ですが、無駄ではないのです。
むしろ有意義なことなのです。
別に私だけに限った話ではありません。
その聞いてくれる人の多寡にかかわらず、私たちみんな誰であっても、自分の意見を主張するべきなんです。
それはなぜでしょうか。
それには、大きく2つ、「自分のため」という理由と、「社会のため」という理由があります。
そして、これらこそが、私がこうしてブログを書いている、書き続けている理由です。
*「自分の意見」なんて存在しない?
そもそも、「自分の意見」とは何でしょうか。
私たちは当たり前のように「自分の」と言っていますが、それはほんとに「自分の」でしょうか?
例えば私たちが人に「これはかくかくしかじかなんだよー」って偉そうに語っていても、それが実は最近読んだばかりの「本に載っていた話」であったり、最近知ったばかりの「人に聞いた話」であったり、そういうことは正直ありますよね。
この場合に、これが本当に「自分の意見」かと言われると、弱りますよね。だって、その出自がどう考えても「他人の意見」の丸写しだからです。
正直、やっぱり「他人の意見」のような、そんな気はしますよね。
ですが、これを踏まえて、じゃあどこからが「自分の意見」か、と聞かれると、これもまた難しいのです。
考えてみて下さい。
――他人に依らない自分だけの意見。
果たして、そんなものあるのでしょうか。
たとえ、「他人の意見」を直接的に丸写ししたものではない、一見「自分の意見」のような主張であっても、多くの場合、やっぱり「ある本」や「ある人の話」などの知識を背景に築かれているものです。
それでは純粋な「自分の意見」ではないですよね。
じゃあ、そんな「ある本」や「ある人の話」などに影響された部分を除いた部分、そこが「自分の部分」でしょうか。
いえいえ、そんなわかりやすい影響の部分を差し置いても、私たちの人生は、家族や先生、友人、恋人など、多くの人にさらされています。
私たちの人生は彼らに影響され続けて成り立っています。
彼らが人生を通して私たちに与えてきた影響は、私たちの性格、話し方、考え方、人生観、色々なことに及ぶはずです。
その影響から「自分の意見」が逃れることは不可能なのです。
私たちは結局、生まれてこの方、みんなとともに生きてきて、そして分かちがたいほど常に影響を受けています。
私たちの意見は、全て「他人の意見」や「他人からの影響」を材料にしていて、決して「自分由来のもの」など存在しえないのです。
・・・え、まだ半信半疑です?
「そんなはずない、自分由来の部分もきっとある」
うーん。
じゃあ、ちょっと考えてみて下さい。
みなさんが悩んでいる時、頭のなかをグルグル言葉が駆け巡ってますよね。
多くの方は、きっと日本語でしょう。
でも、この日本語って、あなたの発明ではないですよね。
それは実は「赤ん坊の頃から人生をかけて、他の人が使っているのを学んだ結果、使ってきてる道具」、つまり「他の人からのもらいもの」ですよね。
だから、あなたがどんなに自分で考えてると言っても、その考えるために使っている言語や、表現する言語そのものが「他人からのもらいもの」なのですから、やっぱりどうしても純粋な「自分のもの」とは言えないのです。
全ての思考が自分独自の言語体系と造語で成り立っている人なら別ですけれど・・・。
*「自分」の役割
というわけで、どんなに私たちが「自分の意見」と思っていても、元はといえば全部「他人からのもらいもの」です。
私たちが自分だけで独自に新しいものを産み出すということは決してありません。
しかし、だからといって「自分らしさ」というのが存在しないというわけでもありません。
「自分の意見」はその素材だけ見れば厳密には「自分たちの意見」いえ「自分の周りの人たちの意見」です。嫌でも、「他人の意見」の合成物です。
「あんた偉そうに言ってるけど、◯◯って人の意見と、△△って本に書いていた話と、□□って先生の考え方と、親から受け継いだ性格で生み出した意見なだけで、単なるパクリじゃない。」と言われれば、ある意味では反論できない代物です。
ですが、視点を変えてみましょう。
素材の由来を気にするからいけないんです。
ちゃんと、この世界であなたの中にしかない唯一無二のものがありますよね。
それは、「他人の意見」という素材の組み合わせ方です。
どんなに似通った二人でも、一卵性双生児だって、他人からどのように影響を受けているかが全く一緒であることはありえません。
だから、たとえ、その素材の全てが他人からのもらいものであったとしても、その割合や分布、組み合わせは、あなたの中でしか見られない唯一無二のものなのです。
これが「自分らしさ」でなくて何でしょう。
だから、「自分」とは何かと問われれば、それは、素材の部分でも出来上がった意見の部分でもなく、素材の組み合わせ方、合成方法です。
例えれば、これは他人から食材をいただいて、それを調理して、料理を作るようなものです。確かに、元はと言えば全部他人の食材です。だから、できあがった料理もあなただけのものというよりは、「みんなのもの」と言わざるを得ません。ですが、素材の使い方や調理の加減など、料理に至る過程の部分はやっぱり「あなたのもの」です。
食材が料理に変わる。この変化の部分が「自分らしさ」なのです。
つまり、「自分」とはある意味では「もの」ではありません。「機能」なんです。
数学で言えば、素材x1,x2,...,xnをもらってきたのを結果yに返す、そんな関数の部分です。
y=f(x1,x2,....,xn)
xは全て他人からのもらいものです。yが結果としてできるあなたの意見です。
だから、あなたはfという関数、すなわち機能の部分なのです。
xをもらってきて、yを返すこと、これが私たちの「自分の役割」なんです。
※数式が嫌いな方がいらっしゃれば、工場を想像してもらってもよいでしょう。
材料をもらってきて、商品に加工する、その機能を受け持った機械の部分が「自分」
です。
そして、私たちの「自分らしさ」が、その機能であるとすれば、「自分の意見を主張しない」ということは、「自分らしさ」を発揮しないことと同義です。
もらいものの食材を集めたはいいけれど、その集めた食材のまま在庫として持っているようなものです。その食材はいつまでたっても全部「他人からのもらいもの」のままです。
そこにあなたはいないのです。
私たちが意見を主張するべき理由の1つがここにあります。
私たちは主張しなければ、そういう「機能」を発揮しなければ、「自分」が生まれないからです。
意見を主張することは、私たちが私たちであるために、どうしても必要な行為なのです。
「自分の意見を主張すること」は「自分のため」なのです。
※ちなみに、「自分探し」で「自分」がなかなか見つからないのは、モノを探すように探すからだと私は思っています。「自分」は「機能」でしかないのですから、自分が何かしないと生まれません。沸騰という機能が、水や水蒸気だけ眺めていてもみつからないように、「自分」も自分や世界をじっと見つめているだけでは見つから無いのです。
*意見を伝達するということ
では、もう一つの理由、「社会のため」というのはどういうことなのかについて見ていきます。
自分の意見を主張するということを、図示すれば⇩のようになります。
様々な人たちから知識や考え方など色々な影響を入力し、ある「自分の意見」という形を出力(主張)する、そんなモデルです。
さて、冒頭で、「多くの人に見てもらえないと意見を主張する意味がない」という意見があることを言いました。
確かに、一言かければ非常に多くの人に伝わる人たちがこの世の中にはいます。ちきりんさんを始めとした人気ブロガーの方々、非ネット界でも政治家や評論家の方々など、彼らの主張を無数の人たちが耳を澄まして待っている、次の意見を聞けるのを今か今かと待っている、そんな人たちがいます。
逆に私のような弱小ブロガーや、そもそもブログをやっていなくて世間話ぐらいしかしない人、下手をすると家族ぐらいしか会話相手がいない人、そんな「意見を聞いてもらう人が少ない人」も多数いるでしょう。
これは言ってみれば出力の量での分類です。
ということは入力の量での分類もできますね。
なので、世の人々は大きく4パターンの人たちに分類されると思います。
図示してみました。
それぞれちょっと見てみましょう。
1)多出力多入力型
色んな人たちから意見を聞いたり、色んな人の本を読んだり、多数の影響を受けて主張をして、それを聞く人も多い人たちです。私の敬愛する、ちきりんさんなんかこの部類でしょうか?
2)多出力少入力型
わりと限られたコミュニティで生きてきて、別に本も読まないし、普段そんなに影響を受ける人たちは多くはないけれど、ブログで発信したらえらく受けてすごいリスナー数になった、そんな人たちです。
3)少出力多入力型
色んな人たちから意見を聞いたり、色んな人の本を読んだりして、意見を主張はしてみるけれど、あんまり聞いてくれる人はいない、そんな人たちです。
4)少出力少入力型
わりと限られたコミュニティで生きてきて、別に本も読まないし、意見を言うとしても家族に少し言ってみるぐらいで、特に世間に発信もしてない、あるいは発信していてもそんなに聞いてくれる人はいない、そんな人たちです。
こんな感じでしょうかね。
さて、「多くの人に聞いてもらえないと意味が無い」という方たちは、つまり1)と2)の人じゃないと主張しても意味が無いと言っているわけですが、果たしてそうでしょうか?
そう言う人たちは、おそらく大事なことを忘れています。
それは、意見の伝達は別に一回で終わりではないということです。
出力先の人たちが、多くの場合また再び意見を出力するのですから。
例えば、一見ダメそうな4)の方が、2)と3)の方々の間をつないでいたらどうですか?
そう、これは、たちまち1)の人のやってることと同じになるのです。
そして、これは4)の人が間を介在してくれて初めて成り立つ1)なのです。
言ってしまえば、1入力1出力の人なんてほとんどいませんから、4)の人たちだけで1)を作り上げてしまうことだって可能です。
どうでしょう。
もし1)と2)が良いというのなら、結果的に同じ機能を果たせる3)と4)の人が無意味というわけにはいかないのじゃないでしょうか。
こう言うと、
「そんなに連鎖させたら、もう自分の意見じゃないじゃないか」
そう言われるかもしれません。
ですが、先ほど言いました通り、素材は影響をあたえる限り、ずーっと渡っていくのです。
素材の素材の素材であっても、やっぱりそれは素材です。
あなたの意見の影響は、伝達される限り、ずっと残るのです。
意見が走り続ける限り、「あなたらしさ」が消えることはないのです。
これでも半信半疑でしょうか。
ではこう考えてみて下さい。
ある1)の人の奥さんが4)だったとします。
その奥さんに1)の人は言いなりです。(笑)
ですから、そんな奥さんの影響はとても強く、1)の人の意見にもかなり反映されています。そして、そんな1)さんの意見を多くの人たちが拝聴するのです。
4)の少出力少入力ではありますが、この奥様こそ、最強の意見主張者と言えないでしょうか?
ある意味で、全く労せずして自分の主張が伝播するのですから、もっとも効率の良い主張方法とも言えますよね。
ということで、お分かりになると思いますが、1)2)のような多出力ばかりが意味があって、3)4)の少出力が意味が無いなんてそんなことはないのです。
1)2)にこだわる人は、きっと、「出力したもの」こそが「自分の意見」いえ「自分」だと思い込んでいるのではないでしょうか。だからそこが注目されないと「自分が活きていない」そう思うのではないでしょうか。
違うんです、出力したものは「他人の意見の合成物」で、せいぜい「みんなのもの」です。
そんなものより大事なこと、自分らしいことは、「他人の意見をつなぐこと」なのですから。
※ちなみに、3)と4)の違いのような入力数の差も別に優劣は無いと思います。なぜなら、料理の素材と同じように種類が多ければ多いほどいいというものではないからです。場合によっては素材も厳選しつつ、いかに素材の味をひきたてるか、それが料理の真髄ですよね。
*社会という大きな脳みそ
ところで、みなさん、ニューロンって知っていますか?
それは私たちの脳の中で信号伝達を司る、神経細胞のことです。
樹状突起という多数の突起で入力信号を受けて、それを細胞体でうまいこと処理して、結果の信号を軸索から出力する。そんな構造になっているそうです。
ま、要するに信号を受けて、信号を出す、それだけの細胞なんですよね。
ですが、御存知の通り、私たちがこうして文章を書いたり考えたりしているのは、彼らのその活動の積み重ねです。
そんな単純な信号の伝達が積み重なれば、こんな複雑な知的機能が生み出されるのです。
その仕組みは、多くの科学者たちが解明に挑んでいますが、今のところまだどうなっているかよくわかっていないようです。
しかし、デカルトが「我考える、ゆえに我あり」と言ったように、私たちはこうして現に考えてしまっています。
だから、そんな単純な信号が積み重なれば、こんな複雑なこともできるということを、たとえその原理が分からなくとも、私たちは信じざるを得ないのです。
ほんとに不思議で奇跡的なことですよね。
・・・さて、これって、なんだか似てると思いませんか?
そう、先程まで見ていた、私たちの社会における意見の伝達と瓜二つです。
人の意見を聞いて、考えて、それを自分の意見として主張する。
その連鎖は、全くもって神経細胞の連鎖と同じです。
ということは、つまり、私たちのそんな意見の伝達という単純な活動が積み重なれば、もっともっと高度で複雑な知が生まれる可能性があるということです。
想像してみて下さい。
私たちの神経細胞が何億、何十億と集まることで、すっごく単純な信号伝達から、言語を操り泣き笑い、世界の仕組みを分析する、そんな高度な知能を持つ脳みそを産み出しました。
そんな高度な知能を持つ脳みそを「一単位」として何億、何十億と集めて、意見を伝達したら、いったいどうなってしまうでしょうか?
もう、とてつもなく、これはすごいことなのです。
そして、よく考えてみて下さい。
今や、IT技術の発展で、世界中の人々がつながることができるようになりました。
今までは地域地域ぐらいでしか伝達できなかった意見という信号が、今や誰でも全人類にむけて発信することができるのです。
今まで、どんなに少出力だった人でも、例えばブログを立ち上げるだけで、それはもう全人類に向けた信号になります。もちろん全人類がそれを一気に聞いてくれることはないかもしれません、しかし、これが今までには考えられないほど密な神経細胞ネットワークになることは間違いないことでしょう。
また、ブログを立ち上げたりツイッターをしてみたり、そんなIT技術を使わなくたっていいんです。
近くの家族や友人に、自分の意見を主張するだけで、それで彼らに影響を与えるだけで、それだって世界を変えられるかもしれません。なぜなら、別にあなたがやっていなくとも、家族がブログをやっているかもしれないですし、友人の友人がブログをやっているかもしれません。
だから、これはもう、あなたも世界とつながっているということなんです。
社会はもはや、とてつもなく大きな大きな脳みそになっているのです。
一人あたり140億個の神経細胞が、さらに70億人分集まった、そんなそんな、巨大な脳みそなんです。
これは人類が初めて経験する未曾有の光景です。
私たちはそんなとても貴重な時代に生きています。
*私たちの能力を超えて
「脳はほとんど神経細胞を使っておらず、眠っている神経細胞がいっぱいある」
そんな説を聞いたこと、みなさんありますよね。
そんな眠っている神経細胞をたたき起こして頭を良くしようとか、エスパーになろうとか、そんなたわいもない夢を私たちはずっと抱いてきました。
ですが、現実は厳しく、結局私たちはなかなか頭が良くならないし、エスパーにもなれていません。
なかなか、私たちの中の神経細胞を起こすのは難しいようです。
ただ、脳の中の神経細胞を起こす以外の方法で、超能力を得るために私たちにもできることがあります。
それは、社会の脳みその眠っている神経細胞を起こすことです。
まだ社会の神経ネットワークに参加していない、眠っている神経細胞を叩き起こすことです。
その神経細胞とは他でもない私たちのことです。
神経細胞を叩き起こすということはつまり、
あなたが意見を入力し、あなたが意見を出力すること。
あなたが、あなたで考えて、あなたの意見を主張すること。
あなたの、あなたらしいところを発揮すること。
ただ、そういうことです。
そう、全く難しいことではありません。
ほんの簡単な一歩からでもいいのです。
ちょっとブログを開いて、意見をちょっと書くだけでもいいんです。
あなたの隣の大切な人に、あなたの思いを打ち明けるだけでいいんです。
言葉で表現するのが苦手な方は、写真でも絵画でも、歌でも踊りでも、何でもいいんです。
誰でもないあなたが、あなたではない誰かに伝える。
ただ、それだけでいいんです。
また、全く恥ずかしがることでもありません。
生まれてきて、生きてきて、
色んな影響を色んな人からもらってきたから、
そのもらってきたお礼に自分なりにみんなにお返しをする。
そういうことなんです。
もらったからお返しをする。
すごく普通のことですよね。
でも、ただ、それだけのことなんです。
でも、ただ、それだけで、社会は変わります。
私たちには超能力があるんです。
一人一人には超能力はなくても、みんなで集まれば超能力は生み出せるのです。
今までの人類が持ち得なかった、とてつもない力を持つことができるんです。
だから、もうみんなエスパーなんです。
夢かと思うかもしれません。
でも、なんと現実なんです。
とても素敵なことですよね。
だから、私は今日も考えます。
ボーッとボーッと。
そして、うんうん唸って、下手ながらも文章を書いて、意見を主張します。
出力します。
色んな人のブログを読んで話を聞いて、本を読んで。
聞いて、見て、感じて、
また色々入力します。
それを繰り返します。
これが自分のためでもあって、
そして社会のためって知っているから。
そう。
今日も。
明日も。
明後日も。
いつまでも。
みんなと一緒に。
P.S.
おかげ様で、こっそりブログ開設1周年になります。
ブログを書く理由を紐解くような、そんな記念になりそうなテーマにいたしましたがいかがでしたでしょうか?
え、長かった・・・!?(ちなみに8200字あります;;)
うぅぅ・・・すみません(´д⊂)...マ,イツモノコトデスガ
ともかくも、この一年、お忙しい中にも関わらず、足を運んでいただいたり、コメントをいただいたり、皆様ありがとうございました。m(_ _)m
ではでは、2年目もよろしくお願い致します☆