雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

学校は世界の紹介所

ということで、「あんた教育に文句ばっかり言ってるけど、じゃあどうすればいいの」というお話です。

 

 

まず、目的をはっきりさせましょう。

ちらっと前にも書いたように、私は教育は「知的財産の遺伝・継承」という行為だと受け止めています。

人類の知が未来にも続いていって、さらに進歩させるための世代間継承、それが教育の目的と考えます。

 

前回も見たように既存の知識を超えて進んでいくためには、どうしても学問スタイルを子どもたちに身につけさせることが欠かせません。

ですが、学問は勉強をさせることのように、強制し押し付けることでは身につきません。

それは、「なんで?」「どうして?」と自分の中で問いを見つけ、そしてそれを探求していこうというあくまで自発的な行為だからです。

このためには子どもたちに各分野に対する好奇心を抱かせる、つまり「好き」になってもらうことが必要です。

ですから、この「好き」になってもらうということが学校の最大の役割だと私は思います。

 

 

こう言うと、

「算数が嫌いな子に算数を好きになってもらえるよう、国語が嫌いな子に国語を好きになってもらえるように既にやっている」

そう言われるかもしれません。

ですが、私が主張しているのは、そのように「嫌いなことを何とかして好きにさせること」ではありません。

好きになるチャンスは与えるけれど、好きになるかどうかはその子次第。つまり嫌いなら嫌いなままで良いと思います。

私が言っているのはつまり、「好きなものを見つけてもらうこと」なんです。

「嫌いなものを好きにさせること」とは似て非なるものです。

 

 

例えば、先ほどの、

「算数が嫌いな子に算数を好きになってもらえるよう、国語が嫌いな子に国語を好きになってもらえるように既にやってる」

この発言は、算数や国語を無意識のうちに重視しすぎていないでしょうか。

 

学校で教える算数や国語なんてこの世界の知識や活動のごくごく一部です。世界にはもっともっと色んなものごとがあります。

逆に、学校で教えている「算数」だって、本当の「算数界」からすればそれもごくごく一部でしかないでしょう。

そんなごくごく一部の話を、こんなにも多くの人間に多くの時間をかけさせて「好きになってもらう」、これはそんなに自然な行為でしょうか?

 

そもそも「好きにさせる」と言ったって限度があるはずです。

子どもたちが算数を好きだろうが嫌いだろうが関係なく、「熱意を持って教えていれば、いつか好きになってくれるはず」とか言いながら、延々と教え続けるのですから、最初から子どもたちの好みなんて無視しているのと同じです。

好きな人を監禁して縛り上げておきながら、「私のこと好きになってくれるよね?」と毎日言い聞かせているストーカーのようなものです。

彼らに「嫌い」という権利が残っていなければ、決して彼らの「好み」を尊重しているとは言えないのです。

 

結局、今の教育は私たちの「好み」を、彼らに押し付けていることに他なりません。

「好み」を無視している以上、それはやっぱり学問ではなくて、単なる「勉強させている」という行為でしかないんです。

 

それじゃだめです。勉強じゃなくて、学問をさせないといけないんですよ。

子どもたち一人一人の「好み」、すなわち個性を尊重して、それをいかに伸ばせるようにするか、これを教育の最大の目標にしないといけないんです。

 

 

 ◆

 

 

子どもたちはこの世に生を受けて間がありません。

それまでは自分たちとせいぜい親兄弟までという狭い世間で生きてきています。

初めて学校の門をくぐるとき彼らの世界はまだまだすごくちっぽけなものです。

 

しかし、何かを「好き」になるには、まずその存在を知らないといけません。

私たちが会ったことも聞いたこともない赤の他人に恋をすることが無いように、子どもたちも知らないものを好きになることはありません。

 

だから、学校がやるべきことは「この広い世界を紹介すること」です。

人類はこの世界を長年生きてきて、この世界について色んなことを知って来ましたし、この世界の中で色んなことをやってきました。

それをいかに、彼らに紹介できるか。

それが求められているのです。

 

ですから、内容は当然、英数国理社図工体育家庭科など現在の科目に限りません。

そんな科目数では少なすぎます、あるいは大雑把すぎます。

 

もうほとんど日替わりで科目が様々に入れ替わるぐらいしてもいいと思います。

 

科目は何でもいいです。もう出来る限り全部です。

「ゲーム」や「アニメ」なんて科目があってもいいでしょうし、「ブログ」や「SNS」なんて科目があってもいいでしょう。「車」とか「ダイエット」だっていいはずです。あと「旅行」とか「カメラ」とか「ケーキ」とか・・・えっとえっと・・

 

・・・と、残念ながら私の世界が狭すぎるので、ここで例をいっぱい挙げるのが難しいですが、こんなふうに学校には無数に科目があっていいはずです。

 

君たちのご先祖様たちは、こんなにいろんな事をこの世界でやってきたし、楽しんできたんだよって伝えることが大切なんです。

 

彼らのちっぽけな世界を広げてあげる、この広い世界に迎えてあげる、それがやるべきことなんです。

そう、学校は「世界の紹介所」なんです。

 

 

 ◆

 

 

さて、色々なものごとを紹介するとなると、1つ1つにかける時間は短くなります。

だからどうしても広く浅くになってしまいます。

せっかく「好きなもの」を見つけることができたとしても、それをもっとやってみる時間が無いと、その気持ちを生かせなくなってしまうので意味がありません。

だから、大事なのが、自由時間です。

学校はあくまで「広く浅く」やる場所に専念して、その上で子どもたちの毎日が学校の時間ばかりで潰れないようにほどほどの授業時間にします。そうすればその余った自由時間に彼らは自分たちで「好きなもの」のことを調べたりやってみたりすることができます。勝手に勉強――いえ、学問を始めるはずです。

皆さんご存知の通り、好きなものをやるときの私たち人間の力は凄まじいものです。それが子どもたちであればなおさらです。

だから、前回の記事の通り、本来「勉強」よりも学びの効率が悪いはずの「学問」ですが、好きなものであれば、それは「嫌いなものを勉強させられる」より遥かにスピードが早く密度も高くできるのです。

週6日制は、(授業内容を差し置いても)この子どもたちの自由時間をも減らすという点で非常に問題だと思っているので私は反対なんです。

 

 

とはいえ、自由時間も確保するとなると、残りの限られた授業時間では、世界の全部のものを紹介できないかもしれません。

いえ、世界は広大ですから、むしろほとんど残ってしまうと言ってもよいでしょう。

残った分を紹介できないと困りますよね。

紹介された範囲の中に、好きなものが見つからない子が出てしまうかもしれませんから。

 

ですが、私は大丈夫だと思っています。

その理由は、「学校で世界の色んなものごとを紹介すること」そのものの効果です。

 

毎日のように覚えきれないほど、色んなジャンルを紹介してもらって、色んなことをして楽しそうにしている人たちを見せられると、子どもたちはきっとこう思うはずです。

 

「世界にはこんなに色んなものごとがあるのだから、自分の好きなものもきっとある!」

「世界にはこんなに色んなことをしている人たちがいるのだから、自分も自分らしい好きなことをしたい!」

 

つまり、毎日毎日、少しずつ、でも着実に世界を広げてもらっているので、「世界を広げること」が癖になるはずです。

もともと好奇心旺盛な子どもたちですから、世界を広げる作業との親和性は良いはずです。

だから、運悪く学校で教わっている中で「好きなもの」がすぐには見つからなかったとしても、自由時間できっと自らもっと「自分の世界を広げる活動」をするのではないでしょうか。もちろん親御さんの手助けはいるでしょうけれど、本を読んだり、話を聞いたり、テレビでもネットでも良いでしょう。

そうやって世界を広げることができれば、いつかは「好きなもの」に当たることができるはずです。

 

いえ、既に「世界を広げること」そのものが好きになってしまっている、そんな期待もできるかもしれません。

 

 

 ◆

 

 

あと、「世界を広げる」教育には学問のきっかけになると同時に、もう一つ大きな利点があると思っています。

 

それは、世界の様々な分野や、様々な人たちに触れることで、自然と「多様な価値観」を認めるようになることです。

まず自分たちでは覚えきれないほどの多様なものごとを目にすれば、色んな考え方や好みがあるということを嫌でも思い知らされることでしょう。自分の考えだけが正しいなんて、とても思えなくなるはずです。

 

そして、もっと大きいのは、学校や先生という「子どもたちから見た世間の大人の代表選手たち」が「多様な価値観を差別なく同等に紹介している」という事実です。

子どもたちは大人のことをよく見ています。だから、大人が率先して多様な価値観を認めているなら、その姿はやっぱり彼らの心に染みるはずです。

 

多様な価値観を認めることは、他人を尊重することにつながります。

この世に多様な価値観や人があって、そしてそれに優劣が無いことが心に刻まれていれば、人を虐げることなどできなくなります。

だからきっと、「いじめ」だって抑制されるはずなんです。

 

 

逆に言えば、私は今の教育での「いじめ」の原因の1つは、学校が少ない価値観しか認めず、世界を狭くしているからだと思っています。

学校という「大人たちの代表機関」が「英数国理社」などの主要科目を他の何よりも優先し(差別し)、それを人に強制し、またそれを基準に人の優劣を評価(選別)しているのですから、他人より自分を優先し、自分の考えを絶対の基準かのように行動し、人に嫌がることを強制することだって許されてしまうように感じても無理はないでしょう。

この点からも、私はやっぱり現行の「勉強偏重教育」は見直すべきだと思っています。

 

 

 ◆

 

 

子どもたちは好奇心の塊です。

 

「なんで?」「どうして?」

 

疑問に思ったらすぐに何でも聞いてきます。

答えを返しても、それにすぐにまた「なんで?」と問い返されて大弱り。

こんな経験皆さんもありますよね。

 

こういった好奇心が、学問を進めてきた力、人類の英知を伸ばしてきた力であることは疑いようもないはずです。

ですが、私たちはいつしか、そういうことを聞かなくなってしまいます。

何を見ても「そういうもんだ」って思うようになってしまいます。

 

それはいつなんでしょう。

それはどうしてなんでしょう。

何でこんな大人になんかなってしまったんでしょう。

 

全てでは無いと思うのですが、やっぱりその要因に学校の存在は大きいと思うのです。

 

学校に初めて行くとき、「色んなことが学べる」といって案外子どもはワクワクしているはずです。

でも、その期待していた学校で、勉強するべき内容を押し付け、正解を押し付け・・・と、大人たちの「そういうもんだ」を押し付けるから、彼らもいつしか「そういうもんだ」って思ってしまうんじゃないでしょうか。

 

 

私はこんなもったいないことは無いと思うんです。

別に超能力を手に入れようという話ではないんです。ただ、元から私たちがもっていたはずのあの「好奇心」という素晴らしい能力をこんなことで失うなんて、もったいないにもほどがあるじゃないですか。

 

 

だから、教育には変わって欲しいんです。

教育が発明された当初では難しかったかもしれません。

でも、今の豊かになったこの時代なら可能なはずです。

 

 

 

子どもたちの小さな世界を大きな世界に広げるために、

子どもたちにこの大きな世界をさらに大きな世界に広げてもらうために、

世界からみればちっぽけな存在でも、

その中に世界がギュッと詰まっているような、

そんな学校、

そんな世界の紹介所、

そこで、子どもたちを迎えてあげましょう。

 

「ようこそ、世界へ」

 

って、両手を広げて。

 

 

 

 

 

 

P.S.

私自身の記憶でも授業で学んだことってそんなに無いんですよね。

「させられてる」ものってやっぱり何か違うんですよ。

どちらかというと、課外時間でのほんの一言でも、世界の見方を変えてくれること、その方がよっぽど教育なんじゃないかなと思うんです(参考:What a Beautiful World - 雪見、月見、花見。)。