学問と勉強の違い
昨日の記事に「学問と勉強は違いますものね。」というid:okko326さんのコメントを頂きまして。
そうそう、ほんとそうなんです!
昨日のながーい私の文章はこの一言で全部表されてしまいます。
うん、たったこれだけなのに、あんだけまわりくどくたどたどしい説明しかできない、私の文才の無さが悲しい・・・(´・ω・`)
はてさて、というわけで、せっかくですので学問と勉強の違いについてもう少しクローズアップしてみたいと思います(って、結局また長くするんかい!)。
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学問も勉強も、知識や考え方を向上させていく行為であるということは共通です。
ですが、違うのはそのゴールです。
学問は「真実」をゴールに設定しているのに対して、勉強は「既存の知識」をゴールにするものです(一応ここではそんな定義とします)。
今の学校の多くの授業は、先生や教科書から「既に分かっていること」を学ぶ行為ですから、「勉強」にあたります。
未知の真実を追い求め、最先端で研究をしている学者さんたちがやっていることはやはり「学問」です。
さて、昨日も言った通り、自分なりに検討してみて「真実」を探求する行為である自由研究は学校の課題の中では「学問」と言えるでしょう。
しかし、「既存の知識」を教える授業を中心に構成されている学校は、やはり「勉強」中心の制度と言えます。つまり、勉強ばかりして学問をしない制度なのです。
ここで、どちらも一見すると同じような知的活動に見えるため、勉強ばかりしていても将来的に学問につながると思いがちなのが、教育に関する様々な失敗を引き起こす原因です。
昨日の話とも少々かぶるのですが、すごく言いたいところなので(笑)、もう一度説明します。
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例えて言えば、
「勉強」は既存の知識を登っていく行為であり、
「学問」は既存の知識を横目に見つつ、自分なりにもう一度知識を築いていく行為です。
どちらも一応、上に向かっていく行為なので、何となく見ているだけではどちらも同じゴールに向かっているようにも見えますが、違いが出るのは「既存の知識の頂上」の高さまで来た時です。
頂上からは「既存の知識」の足場が無いので、いくら勉強組でもこれからは自らの力で未知の高さに挑んでいかなくてはなりませんが、困ったことに彼らは「知識を学んだこと」はあっても「知識を築いたこと」がありません。ここまで来て、彼らは突然途方に暮れるのです。
一方の学問組は、それまでに自分で知識を築いてきた経験があるために、自身で更に上に登る力がついています。だから、そこからでもコツコツと積み上げることができるのです。
また、学問組は既存の知識を再検討しながら登るため、途中で足場の欠陥を見つけることがあります。小さいものなら良いのですが、それがそのまま登ると建物自体の安定性も左右する重大な欠陥なこともあります。ですから、それを修正することで、既存の知識体系よりもより頑丈な建物として進んでいくことができます。
しかし、勉強組はもう既存の知識という建物の上に立ってしまっています。それを足場にしてしまっています。だから、「あ、途中で欠陥見つかりましたよ」と言われても、もはや直せないのです。それに、たとえその欠陥の位置まで戻ったとしても今まで知識を築いたことの無い勉強組の人たちがそこから再度登り始めるのは困難なのです。
簡単に言えば、勉強は「既存の知識に追いつくためのもの」、学問は「既存の知識を追い抜くためのもの」と言うことができます。
最終的にどちらが知識を進歩させていくかは言うまでもありません。
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じゃあ、学校でも勉強じゃなくて学問をしたらいいのにと思うかもしれません。
学校が「勉強」を選んでいるのには大きく分けて2つの理由があります。
1つ目は、知識の塔を登るスピード、つまり学ぶスピードは勉強の方が学問より速いということです。
それもそのはず、学問の方はわざわざ自分で知識を再構築していくためにどうしても二度手間になり遅くなってしまいます。もちろんこれは知識を本当に深く知るために重要な手間ではあるのですが、他人から見れば、それは遅く見えるのです。
2つ目は、「学問」は生徒を評価しにくいということです。
「勉強」では「既存の知識」を基準にすれば、生徒を評価し成績順に選抜することは簡単です。しかし、「学問」では誰も持ってない「真実」が基準になります。「真実」を前にしては「既存の知識」でさえ試される答案の1つでしかありません。ですから、「生徒の答え」と「既存の知識」とどちらが正しいか、誰にも簡単には言えないのです。「究極の美」を基準にしてしまうとたくさんの絵画の中からどれが一番良い絵か決めがたいように、「真実」を基準にしてしまうとたくさんの生徒のなかからだれが一番優秀な生徒か決めることが困難なのです。
さて、公教育が生まれたのは工業化時代です。
その時代では国力を上げ、産業を発達させるために、人材の急速な育成が求められました。そのために公教育が進められていったのです。
しかし、当時の各国の国力ではまだ十分に全員に教育をする余裕はありませんでした。
だから、教育のスピードが早く、かつ、教育を受けるにふさわしい「優秀な人材」が選抜しやすい、「勉強」スタイルが優先されることになります。
つまり、「勉強」スタイルは当時の社会状況に合致したものだったのです。
先進国ではそれでも「学問」のスタイルも忘れませんでしたが、後進国では先進国の知識に追いつくことばかりに気を取られ、「勉強」に集中しすぎた結果、「学問」を忘れてしまうこともありました。
その1例が日本です。
しかも、この過程で、どこをどう勘違いしてしまったのか、「勉強」が「学問」につながると思い込んでしまっています。
だから、ずっとそのままなのです。
ずっと、発展途上時の記憶のままで、「勉強」中心の教育のスタイルを継承し続けてきたのです。
これが、教育から「学問」が消え、「勉強」だけが残った理由です。
⇩図にしてみました。
①ゆっくりな「学問」、速い「勉強」
②欠陥に気づいた「学問」、頂上で立ち往生する「勉強」(駆け足で来たので色が薄い)
③欠陥を直し既存の知識を追い越した「学問」(より頑丈になってます)、欠陥を指摘され立場の無い「勉強」
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社会は変わりました。時代は変わりました。世界も変わりました。
今や、先進国になった日本には先に進む力が求められています。つまり「学問」の力が必要なんです。
もはや古い「勉強」中心のスタイルの教育はそぐわないのです。それは時代遅れなのです。
そこを変えずに、授業時間をただ増やすことで、どうにかしようというのは、非常によろしくない考えと私は思います。
確かに、今の日本でも昨年ノーベル賞を取った山中教授のような「学問」を進歩させる人は時々登場します。
しかし、それが今の「教育」の成果なのかどうか、今一度考えるべきではないでしょうか。
P.S.
何だか文句ばっかり言ってる感じは良くないので、じゃあどうすればーみたいなお話をまた次回にでも!(なんか続きもの多い、最近。。。)