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「コミュニケーション能力」を要求するディスコミュニケーション社会

「コミュニケーション能力」と十把一絡げに捉えることの弊害 - 脱社畜ブログ

そもそもコミュニケーション能力ってなによ - 24時間残念営業

を拝見しまして。

 

私も以前から「コミュニケーション能力??」と思っておりまして、そんなの要求するのってどうなの、というお二人のご意見にとっても共感しています。

 

特に24時間営業さんは「コミュニケーション能力」の正体って何だろうってところを考えられていましたが、確かにこんなに世の中で言われているのに「コミュニケーション能力」って一体全体なんなのかよく分からないんですよね。

 

ただ、私なりに解釈らしきものがありますので、今回はこの「コミュニケーション能力」とやらについてちょっとボーッと考えていきたいと思います。

 

  ◆

 

「コミュニケーション能力」を基準に人を選ぼうというぐらいですから、この能力には高い、低いがあるという前提があるはずです。

 

一般的には「難しいことができる」のが「能力が高い」と言われますから、「コミュニケーション能力が高い」というのは「コミュニケーションが難しい相手とコミュニケーションをとれること」と解釈するのが自然なところと思います。

 

では「コミュニケーションが難しい相手」というのはどんな相手でしょうか。

 

ここは色んな意見があるかもしれませんが、私は最大の因子は「自分と共通項が少ない人」だと思っています。分かりやすく言えば、「自分に似てない人」ですね。

 

同じ日本語を操り、同じ日本の行事や文化を経験している日本人が、異言語を操り日本とはまた違ったそちら独特の行事や文化を経て成長してきた外国の方より、コミュニケーションが取りやすいのは言うまでもないでしょう(決して取れないというわけではありません)。

 

また、同じ日本人の中でも、価値観や考え方、あるいは興味のある分野や職業、趣味などが一致している方が、細かいところを省いても伝わることも多く、話の阿吽の呼吸が合う、つまりコミュニケーションが取りやすいと言えると思います。

 

結婚なんかでも「価値観の一致」が相手を選ぶ上で非常に大きい地位を占めているのは、やっぱり「コミュニケーションのストレスが少ない(コミュニケーションが簡単な)相手」が良いということなんだと思います。

 

このように、いろんな場合にかなり普遍的に当てはまる条件と思われますので、「自分と似た人」が「コミュニケーションを取るのが簡単な相手」で、「自分と似てない人」が「コミュニケーションを取るのが難しい相手」であると、十分に一般化してもいい条件と思います。

 

 ◆

 

さて、そうしてくるとおかしいことに気付きます。

コミュニケーション能力があるというアピールのために挙げられているポイントです。

 

脱社畜ブログさんから引用させていただきますと、

「サークルのリーダーとして云々」、「アルバイトにおいて云々」、「学生団体を立ちあげて云々」・・・

 

このように何らかの団体活動の経験などがよくアピールポイントとなっているようなのですが、よくよく考えますと、これは全然アピールになっていないのです。

 

サークルでも団体でもいいのですが、いずれもあくまで「何らかの共通の目的を持って集まっている集団」です。好きなスポーツや趣味が共通だったり、仕事内容が一緒だったり、社会に対する思いが同じだったり――これらは正直言って十分すぎるほど強力な共通基盤です。

 

当然この集団の中に居る人たちは「自分に似た人たち」ばかりです。つまり結局「コミュニケーションを取るのが簡単な相手」ばかりです。

言ってみれば、サークルや団体活動で多くの仲間ができたー、というのをアピールポイントにするのは、「九九ができるから私は数学が得意だと思います」と主張してるようなものなのです。「簡単な課題を多くこなした経験」を「能力が高い」根拠にしてしまっているのです。

そんなものどんなに声高に主張しても、「コミュニケーション能力」が高い理由には成り得ないはずですよね(確かに「コミュニケーション能力」が低い理由にもなりませんが)。

 

本当に「コミュニケーション能力」が高いというのは、自分に全然関係ないところに放り込まれても充実した会話や交流が成り立つことだと思います。

決して同じ日本人の同じ世代の同じような趣味の人たちとの交流だけでは足りない能力なんです。

 

 ◆

 

とはいえ、学生さんが勝手に主張しているだけなら全然問題は無いと思います。選抜する企業側が「そんなんじゃコミュニケーション能力が高い証拠にはならないよ」と言ってしまえばそれまでだからです。

 

ですが、恐ろしいのは企業側も「こういうサークル活動などをしているのはコミュニケーション能力が高い根拠になる」と思っていそうだということです。

そもそも、学生たちも馬鹿ではありませんから、採用につながらないのであれば、こんな主張するはずがありません。企業側も「こういう視点」で「コミュニケーション能力」を判断しているということに間違いはないでしょう。

 

「簡単な課題」にもかかわらず「高評価」になるということであれば、当然みなその「簡単な課題」をこなそうとし始めます。「難しい課題」にチャレンジすることはなくなります。

 

例えばテニスなんかの対戦型のスポーツを想像してみて下さい。相手の強さに関係なく今までの試合での勝利数だけが強さの評価の対象になるのであれば、みな弱い相手ばかりに戦いを挑んで勝利数を稼ぐことでしょう。

 

こうなると、有利なのはどんな人でしょうか。

 

それは「多くの人と似ている人」です。

要するにすっごく「普通の人」「多数派の人」「平凡な人」です。

多くの人と同じような考えを持って、同じような物を持って、同じようなテレビや映画や本を読んで、同じようなところに行く、そんな人です。

そんな人なら、「多くの人と共通基盤が持てている」ので、「コミュニケーションを取る難易度が低い」のです。だから、「多くの相手とコミュニケーションを取ってる」かのようなアピールができることになります。

 

現状の「コミュニケーション能力」戦線の評価方法では、こんな「普通の人」こそが有利になって、エキセントリックな「個性的な人」は不利になると言えるでしょう。

 

 ◆

 

これで、「多数派の人はオメデトウ」「少数派の人は残念でした」になるだけなら、まだマシですが、そうは問屋が卸しません。

 

単なるクイズやゲームならそれでもいいのでしょう。ですが、就職活動という人生の重要関門において、このような評価基準が存在しているとすれば、当然みんな無理矢理にでもその基準に合わせにいくのです。

 

つまり「少数派の人」も何とかして「多数派の人」になろうとしていくということになります。

 

自分の趣味ではないけれど、多くの人が読んでいるらしい本を読んで、趣味を持って、物を持って、「常識的な」意見を持って・・・。

 

個性を潰して、普遍で一様な人間になろうとする。

自分を殺して相手に合わせる。

 

そんな流れができてしまうのです。

 

しかし、そもそもコミュニケーションとは何でしょうか。

相手があって自分がいて、その間の意思疎通を図ることが、コミュニケーションのはずです。

お互いがあってこそ、それぞれの個性が確立していてこそ、成り立つ概念のはずなのです。

 

それなのに、自分を殺して相手に合わせるようにする。

そしてそれを「コミュニケーション能力」が高いと呼ぶ。

 

ここに私は大きな矛盾を感じるのです。

 

 ◆

 

こんな流れを見ていると、企業も「コミュニケーション能力が高い人」を求めているというよりは「自分たちや顧客に合わせてくれる人」という「没個性的な人」を求めているだけに思えます。

結局のところ、企業の方も自分たちにとって「コミュニケーションをとる難易度が低い人」を求めているだけなのです。自分たちが楽をしたいのです。

これは、企業が自分たちこそ「コミュニケーション能力が無い」と言っているようなものでしょう。相手にばかり「コミュニケーション能力」を求めるという時点で、コミュニケーション能力が無いということを自白しているようなものなのです。本当に自身のコミュニケーション能力が高いなら、相手にコミュニケーション能力が無くてもコミュニケーションをとれるはずですから。

 

例えば、どんなゲストが来ても、さんまさんやタモリさんや黒柳徹子さんのトーク番組が面白いのは、どんなゲストが来ても、つまりどんな素材が来ても料理できてしまう、そんな彼らのトーク能力の高さがあるからなのです。

ゲストにばかり「トークが面白い人」を要求するような人たちなら自分が看板のトーク番組やコーナーなんて持てるはずがないのです。

 

 ◆

 

「コミュニケーション」とはお互いの意見を交換することです。

つまり、お互いの差異を共有しあう行為のことです。

それを相手の意見に合わせたり、自分の意見に合わせさせたりして、同一になることを目指してしまうのは、要するにその差異のギャップをなかったコトにするという作戦なのです。ハッキリ言ってズルです。

そんな差異をなくした状態での会話なんて、自分で自分に話をしているようなものです。そんなのダイアローグでなくて、モノローグなんですよ。

コミュニケーションになってないんですよ。

 

 

自分の価値観と違う視点や共感できないものも理解しようとする。

相手の意見に反対はしても存在を否定しない。

みんなに個性があることを認める。

自分も立てながら、相手も立てる。

その上で、ちゃんと意見を交換する、情報を交換する、感情を交換する。

これらこそが本当のコミュニケーション能力のはずなのにと思うのです。

 

 

企業が堂々と相手にばかり「コミュニケーション能力」を要求し、学生も粛々とそれに従う社会。

それはそもそもコミュニケーションを取らなくていいように、みんな同じになるようにしよう、個性を消そうという社会の裏返しです。

 

「コミュニケーション難しいから、みんな同じになってコミュニケーションしなくて済むようにしよう!」

 

こんなにコミュニケーション能力が低い、ディスコミュニケーション社会は無いんじゃないかなと思います。

 

 

 

P.S.

 ま、私はいつも少数派に入る方なので・・・。

悲しむべきことか喜ぶべきことかは分かりませんけれど。(´・ω・`)