雪見、月見、花見。

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赤ちゃんの泣き声と、クレーマーと、我慢の限界

 

なんだか、すごく話題になってるこの記事を読んでみました。

 

再生JALの心意気/さかもと未明(漫画家) (PHP Biz Online 衆知(Voice)) - Yahoo!ニュース

 

この内容がとても物議をかもしていて、

 

「子供は泣くさ」 物議醸した“搭乗マナー”問題、つんくや乙武さんの発言に共感の声多数 | RBB TODAY

 

のように、どちらかと言うと、非難の対象になっているようで、コメントを何となく見ていると一部には猛烈な批判をされている方もチラホラ。

 

 

うーん。

 

私が仮にこの現場に居合わせていたとしたら、確かに多分「わー。なにこの嫌なおばはん、クレーマーやなぁ」って不快に思います。ほんと、言うにしても裏で言えばいいのにと。

ここは多くの批判されてる方と同じ意見・感想だと思います。

 

ただ、赤ちゃんの泣き声は実は私も苦手なんですよね。特にトラウマがある覚えはないのですけど、聞いていると心の海の奥底からえぐられるような感じがして、自分まで泣きそうになってきたりします。脈もすごく早くなって、とてもしんどいです。一応我慢はしますけれど。

で、みんなに確認したことがないのですけど、これって私だけですか

そもそも、赤ちゃんの泣き声というのは「SOS」メッセージです。赤ちゃん自身は何もできませんから、この「SOS」だけが唯一の彼らの武器になります。だから、人類の進化の過程で、当然、この泣き声を聞けば、大人たちが助けたいと思うように遺伝子にプログラミングされているはずです。泣き声を聞いたら「わ、なんとかしないと」と思うのが本能のはずです。そして、それを不快に思うのが本能のはずなんです。自分のSOSである「痛み」と同じです。「痛み」も「不快」だからこそ、SOSになるんです。泣き声を聞いても大人たちが何とも不快に思わなければ、人類はこれまでに滅びちゃったことでしょう

 

例えば、世のお母さんたちの育児疲れ。この一因に泣き声の本能的な「不快感」というのはやっぱりあると思うんですよ。夜な夜な、数時間おきにこの「泣き声」で起こされて、あやしたりおっぱいをあげても、なかなか寝つかず泣き止まない・・・。

その間ずーっとSOS聞きっぱなし、心の奥底をえぐられっぱなしで、そりゃ育児疲れにもなるはずです。

 

ですから、正直な話、きっとみなさんも赤ちゃんの泣き声は不快は不快なんじゃないでしょうか?

 

これは決して「赤ちゃん」を非難してたり、赤ちゃんに泣くなと言っているわけではありません。「赤ちゃんの泣き声が不快である」のは「本能」なのだから、そこは一回きっちり認めないといけないのではと思うのです。

えと、大事なとこなので、もう一度、ちゃんと言います。

赤ちゃんが泣くのが本能ならば、赤ちゃんの泣き声を聞いて不快に思うのも本能なんですよ

だから、どちらが偉いとか、どちらが我慢しないととか、どちらが大人だからというのとは、そこは違うと思います。

せいぜい、大人ができるのは、本能に理性という重しで押さえつける「我慢」と言う名の蓋をすることだけで、このオンボロの蓋が本能という地底の魔物には到底及ばないことは私たちも日々分かっているはずです。蓋をしても魔物はいなくならなくて、やっぱりそこに居るんだってことは忘れちゃいけないと思うのです。

 

 

私も、筆者の人にも非はあるのは認めます。飛行機で赤ちゃん連れを排除する案もやり過ぎだと思います。でも、彼女の訴えは本能的なもので、それだけではワガママとは決して言えないものだと思います。そこに、多くの方が「赤ちゃんの泣き声は仕方ないんだから我慢しなさい」と言うのは、それはそれで乱暴な話。

この筆者に「赤ちゃんの泣き声は我慢しなさい」というのは、赤ちゃんに「泣くのを我慢しなさい」というのと本質は同じで、一部の人が「赤ちゃんの泣き声を我慢しないこの筆者は人間としておかしい」とまで言うのは言い過ぎです。

そもそも、自分にとって不快な人を排除しようとした人を自分にとって不快だからと排除しようとしてる、彼らはこの矛盾に気づいているのでしょうか?

申し訳ないですが、その意味で、私にとって、この手の筆者への人格批判は、機内での筆者の行動と同レベル、いえそれ以上の不快感を覚えるのです。

 

 

私が筆者を非難するのは、クレーム行動に出ることで、他のお客さんに「更なる不快感」を与えたことだけであって、批判を覚悟で「赤ちゃんの泣き声が不快」という自分の感情をこうやって公言し、問題提議をしたことは、むしろ良いことなんじゃないかなと思います。

 

よく読んでいただければ分かると思いますが、筆者も自身のクレーム行動を良いこととは思っていません。自分で自分の行動を不快とさえ思っているでしょう。

その上で、筆者が主張しているのは「お互いに我慢が少なくなるような対策をもっと考えませんか」という話であって、これは本当にもっともな話だと思うんです。

 

我慢はなんだかんだいっても本質は「不快感」でしかなく、決して多ければ良いというものではありません。我慢の限界は人それぞれですから堪忍袋の緒がきれる人は絶対にどこかで発生します。それをただ無理やり我慢させるのが本当に良いことでしょうか?私たちはなるべく最小限にまで我慢しなきゃいけないものごとを減らして、その上で我慢をするべきじゃないでしょうか

こうやって誰かの我慢の限界が来た時はいいきっかけなんです。限界の度、立ち止まって、一度それが必要な我慢かどうか考える。これをやってこその我慢なんだと思います。

 

 

我慢――かつてから日本人の美徳とされてた行いが、今回の筆者の行動と、一部の批判者の方には足りなかったように思うのです。

 

筆者は赤ちゃんの泣き声という仕方のないことに対する我慢がもう少し足りなかったし、一部の批判者の方は赤ちゃんの泣き声にある人がついに我慢の限界を超えたという仕方のないことに対する我慢が足りなかったのです。

 

 

美徳も過ぎたるは及ばざるが如しと思います。

たまには私たちも我慢することを我慢しませんか?

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S.

あー、色んなコメントを読んで腹が立って、我慢できずに書いちゃいました。

私もミイラ取りミイラでございます。。

それにしても、だんだん「我慢する」ってことが分からなくなってくる恐ろしい文章。