風で倒れた自転車を
自転車が風で倒れてる時、あるじゃないですか。
こう、ドタドタドターって、ドミノ倒しみたいに。
自分のが倒れているとげんなりですよね。
でも道を歩いてて、そういう光景に出くわしちゃうこともあります。
私にしては珍しいことに、そゆ時についつい他人の自転車を直しちゃったことがあって。
直し終えたら、まあ用事もないので、そのまま立ち去るわけです。
でもでも、冷静に考えてみたら、自転車を直してもその持ち主の人達って、「自転車が倒れてたこと」自体に気が付かないから、何も感じないはずなんですよね。いつも通りに自転車が停まってるようにしか見えなくて、さっきまでそれがひっくり返ってたことに気づかないんですよ。
ってことは、自転車を直しても直接感謝されることは無いのはもちろん、密かに感謝されることもない。それに、持ち主さんたちが帰ってくるその光景を見て微笑むこともない。
じゃあ、何で直しちゃうんだろう?
本棚の中でひっくり返ってる本を直してみたり、
落ちてるゴミを拾ってみたり、
半開きになってる扉を閉めてみたり。
何となくやっちゃうアレコレ。
誰にも気付かれないのに、やっちゃう善行。
使うのは自分の労力ばかりで、
自分の利益にもならないし、
お礼もされないし、
感謝もされないし、
誰にも褒めてももらえない。
個人で見たら、すっごくすっごく理に合わない行為。
利益が何にもないんです。
自己満足というやつなのかもしれません。
「善いことしたなあ」って自分に酔いしれてるのかもしれません。
でも、ついついやっちゃう時って、あんまりそんな自分の中の打算さえ考えてなかったりするような気がします。
だから案外、人の本能のようなものなのかもしれません。
自分の利益にはならない。
他人の利益にしかならない・・・どころか、せいぜい不利益を防ぐ程度の感じ。
でもそれでもついついやっちゃう。
本能からすれば、どこかの誰かの少しイラッとする瞬間が減らせるなら――きっと、それでいいのでしょう。
何だかすごいことですよね。
だから、もしかすると、自分の知らないうちに、自分の「イラッと」を防いでくれた人が今日だっているかもしれません。
いえ、きっといるはずです。
そう考えると、何だか嬉しい気がします。
誰か知らない人、何をいつどうしてくれたかもわからないですけれど、すごく感謝です。
ありがとうございます。
――って、あれ?
感謝できちゃった。
これって、あくまで密かな善意のはずだったのに。
・・・ああ、そうか、だから多分こういうことなんです。
「こっそり良いこと」をした時に初めて「こっそり良いことされてきたこと」に感謝できるんです。
つまり、自転車を直してる時に、今まで自分の自転車もこっそり直されてきたことに気づくんです。
そしてそれに気づいた喜びが、自分の利なんです。
「されたとき」には気づかないのに「するとき」になって気づく感謝の気持ち。
だから、この喜びは自ら「こっそり良いこと」しないとゲットできないんです。
「こっそり良いことクラブ」の特典って感じです。
感謝することが感謝されることになるし、することがされることになるんです。
直接はつながってなくても、すごくもやっと、でも間違いなくつながってるんです。
風で倒れた自転車を直してくれた人には気づけません。
直してくれたことにも気づけません。
でも、自転車は風で倒れたし、直されたんです。
直したのは誰って個人ではなくて、きっとみんななんです。