勇気ひとつをともにして
最近、ルーマニアで大学生が暴漢に殺害され、シリアでジャーナリストが銃弾に倒れ、と邦人の海外での訃報が相次ぎました。
いずれも、突然の暴力に遭い、孤独に誰にも見守られることもなく、野外のただただ硬い地面を背にと・・・、非業の死を遂げられたようです。非常に痛ましく、顔をしかめずには聞けない話です。
お二人のご冥福をお祈りいたします。
ところで、これらのニュース記事などを読んでいて気になることがありました。
彼女たちの不運には一定の遺憾の意を示しながらも、
「海外を甘く見過ぎ」
「平和ボケしてる」
「わざわざあんな危険なところに行くなんて」
などと、彼女たちを非難するようなコメントがいくらか見られたのです。
確かに、ルーマニアの大学生も何故か不用意にタクシーに乗ってしまいましたし、シリアのジャーナリストの方も最もホットな交戦地域で片方の武装陣営と行動を共にするなどと、非常に危険な行動をしています。もう少し何らかのリスク回避の行動をすれば命を落とさずに住んだ可能性はあったかもしれません。
でも、危険を冒す――それは非難されることでしょうか?
「飛んで火にいる夏の虫」かのように嘲笑されるようなことでしょうか?
私はそうは思いません。
むしろ、尊敬さえしています。
なぜなら二人は「危険だと分かっていても、自分の意思で危険に飛び込める勇気を持っている方たち」だからです。私にはできない、でもそうありたいと思うことを実行できた方たちだからです。
シリアのジャーナリストの方はもちろん戦場での取材に伴うリスクは理解していたでしょうし、ルーマニアの大学生の方も出発前にtwitterで危険な行程であることを理解していた発言があったようです(死後にあっさりtwitterの情報が流れちゃうことについても、またなかなか考えさせられるものがありますけれど・・・)。
それでも二人は行ったんです。
安全だと思って行ったわけではなくて、危険だと思っていたけど行ったんです。
危険だと思っていたけど、それでもそこに行かなきゃと思ったから行ったんです。
誰に強制されたわけでもありません、二人共行く前にやめようと思えばやめれたはずです、それでも行こうと決めたんです。
行かないと分からない、得られないものがそこにあると思っていたから、それを手に入れようと行ったんです。
◆
――何かを得るために、危険を冒す。
これってほんとに難しいことです。私も、なかなかできません。
でも、自分ができないからといって、そういったリスクを負った人を非難するのは失礼だと思います。
私たちの生活が今あるのは先人の方々がリスクを負ってでも何かを得ようとした結果です。
ちょっと考えれば気づけるはずです。誰かが挑戦しなければ、火も使えなかったし、飛行機も飛ばなかったし、薬も何もできなかった。
どれぐらい危険かも分からないながらも、どうにか原理を理解しよう、コントロールしようと誰かが試行錯誤して、時には失敗して、少しずつ安全を築きあげてきたんです。
私たちの今の安全は、誰かが危険を乗り越えて手に入れてくれたものなんです。その陰には運悪く倒れた人もたくさんいたはずです。せっかく危険を冒したのに、結果的には全く無意味な行為だった場合さえあったでしょう。でも無意味だって分かることさえ情報です、人類にとっては一歩前進なんです。
そんな数々の冒険を基礎に築かれた安全地帯から、今まさに危険に立ち向かおうとしている人、立ち向かった人を嘲笑する――とっても非礼に過ぎることではないでしょうか。
◆
no pain, no gain.
得ることは捨つること。
などの格言を始め、何かを手に入れるためには、リスクがつきものなことは常々言われてきています。多くの物語やドラマや歌曲でも、一念発起する人や、危険を承知で戦う人たちは憧れの姿で語られます。
でも、現実世界となると、どうも世の中、急にそういう冒険者に厳しくなる気がするんです。
もちろん、みんなが冒険する必要は無いと思います。しなきゃいけないって思っても、どうしても勇気が出ない、そういうものだと思います。
でも社会が進んでいくためには誰かがしないといけないんです。
必要な人たちなんです。
そんな冒険をできないからできる人を叩くのではなく、できないからできる人を尊敬するんです。
その方が自然な感情じゃないでしょうか。
彼女たちは敵じゃありません。異物でもありません。
私たちが現在を作っている人たちとすれば、彼女たちは未来を見ようとした人たちです。
どちらも必要で、どちらも仲間です。
冒険者の方がお近くにいましたら、危険に向かう前に少しでも不安を和らげられるよう罵声ではなくエールを送ってあげて欲しいな、そう思います。
◆
改めて、亡くなられたお二人に敬意を表します。
志半ばで倒れられたこと、非常に残念に思います。
せめて安らかに眠られることを。