愛で戦争は無くならない
photo credit: ms.donnalee / donna cleveland via photo pin cc
8月の前半は2つの原爆記念日と1つの終戦記念日、そしてお盆のお線香の香りとあいまって、戦争と平和についていつもしみじみ考えさせられます。
大変な数の犠牲者を出した先の大戦に限らず、人類の歴史は戦争の歴史と言っても過言ではないほど、ずっとずっと古来から人類は戦争に次ぐ戦争を重ねてきました。
そのたび数多の人命や幸福が失われる悲劇が繰り返されているのです。
非常に胸が痛む話です。
しかし、この歴史を見る限り人類から戦争という行為を取り外すことは残念ながらなかなか難しいのかもしれません。
でも私は諦めたくありません。
何かいい方法はないのでしょうか。
戦争を止める方法は本当にないのでしょうか?
ちょっと重いテーマですが、せっかくのこの季節ですから、今日は私なりに戦争について考えてみたいと思います。
とはいえ、常々あまのじゃくな私ですから、戦争についてもちょっとみなさんと考え方が違うかもしれません――あしからず。
◆
「Love & Peace」
有名なこのフレーズに象徴されるように、「愛することで平和を実現しよう」という感覚の方はとても多いと思います。
私も長らくそんな中の一人でした。
でも、最近ふと気づいたんです。
「愛は戦争を止めるどころか、戦争は愛のために起きている」
と。
例えば、想像してみて下さい。
事故で、あなたは最愛の家族とともに無人島に漂着してしまいました。
待てど暮らせど一向に救助は来る気配はありません。
いくらか運良く確保した食糧もあとわずか、皆このままでは飢えで死んでしまいそうです。
何か食べ物はないかと散策していると、食糧の入った箱を見つけました。
一緒に島に漂着したものかもしれません。
これでもいつまでもつかは分からないけれど、無いよりはマシです。
これ幸いと手を伸ばそうとしたその時、
「泥棒!」
と後ろから尖った声。
ふと見ると、普段から馬が合わず、顔も見るのも嫌なアイツです。
どうやらコイツも何のめぐり合わせか漂着して、そしてこの食糧はコイツが確保したもののようです。
少しだけでも譲ってもらえないかと交渉しても、そうはいかないの一点張りです。
しかたがないので、そこは引き下がって、他の食糧を探してみるものの、全然見つかりません。
探し疲れ手ぶらで家族のもとに帰りますが、家族の落胆した顔が胸に刺さります。
もう一度、残りの食糧を数えてみますが、ため息をつくほかありません。
明日以降さらに食糧は食い詰めないといけないかもしれません。
あまりの厳しい状況に頭を抱えていた時、何気なく見た向こうの木陰。
――アイツがいました
目線が合うと、しまったという表情で慌てて逃げ帰って行きます。
追いかけてみますが、残念ながら見失ってしまいました。
「でも、なぜここに?」
・・・あなたはハッとします。
「アイツ・・こっちの食糧狙ってる・・・?」
最愛の家族の命綱とも言える貴重な食糧です。
それを奪うなんて冗談じゃありません。
怒りにあなたは打ち震えます。
「なんて憎い・・・アイツめ・・・アイツめっ・・・!」
その時、あなたはこの状況を打開するある選択肢に気付いてしまいます。
「そうだ、こっちもアイツから食糧を奪えば」
なにせ、ここは無人島です。警察もいません。アイツがその結果死んだって誰にも責められやしません。
そして、もとから性格も最低のアイツです。ムカついてムカついて、憎くて憎くて、日常生活の時でさえ、いつもいなくなってしまえばいいと思っていました。しかも、今となっては最愛の家族の命すら脅かす「敵」です。
最愛の家族の命と、憎きアイツの命。
どちらを優先させるかなんて決まってます。
ああ、そういえば、うちの持ち物にナイフも入っていたような――
さて、あなたはどうするでしょうか?
食糧を奪いにに行ってしまうでしょうか?
奪いに行けば、向こうも応戦するかもしれません。何か武器を持っているかもしれません。そうすればそれは戦争です。
実は、話の中の「あなた」は気づいていませんが、実は「アイツ」も最愛の家族とともに漂着していて、最愛の家族のためにできるだけ食糧を確保していたのでした。
また、「あなた」が「アイツ」を嫌いなのと同様に、「アイツ」も「あなた」が嫌いです。食糧を譲ってくれなかった「アイツ」を憎く思うかもしれませんが、「あなた」も「アイツ」に食糧を譲ろうとさえ思っていません。
「アイツ」を近くで見ただけで、まだ襲ってきたわけでもないのに自分の食糧を奪いにきたと「あなた」は思ってしまいました。一方「アイツ」も「あなた」が食糧を奪いにきたのではないか、奪いにくるのではないかが心配で「あなた」を尾けていただけだったのです。
「あなた」も「アイツ」もお互い様なのです。
そしてお互い、「愛する人」のために、いざとなれば戦う気です。
ありえない話ではないと思います。
◆
あくまで想像上のシチュエーションですが、上の話には戦争が起こる要素を組み込んだつもりです。
戦争が起こる要素には、
「限られた資源」
「愛する人に資源を与えないといけない理由・必要性」
「資源を持っている、あるいは自分の資源を狙うムカつく隣人」
の3つがあります。(先ほどの小話では、それぞれ「食糧」「家族の飢え」「アイツ」があたります)
そして後ろの2つの要素にこそ、「愛」の存在が大きく影響しています。
「愛」とは「ある人や物を特別扱いする心」です。誰だって、好きな人を喜ばせたいし、嫌いな人には奉仕したくありません。
「限られた資源」を「嫌いな奴」なんかより「愛する人」に与えたい。
だからこそ、「愛する人」のために奪い合い、戦争が起きてしまうのです。
例えば、先ほどの話でも「愛」がなければ、戦争は起きません。「家族」にも「アイツ」も、そして「自分」も含め、全員が平等な存在にしか思えなければ、ただみんなで均等に分け合うでしょう。
「奪い合い」や「戦争」は、「誰かを誰かより優先したい」気持ちがある限り、「資源」が乏しくなれば、いつかは絶対に起きてしまうのです。
「愛する人を守るため」だから、人は命を賭して戦ってしまうし、そして引き下がれなくなってしまうのです。
お互いに。
※なお、「平等に愛する」のが「愛」という定義もあるかもしれません。
これも1つの考え方とは思います。でも、恋人に浮気されたら腹が立つし、好きな人には特に優しくしてもらいたいのが私たちです。言い訳に「みんなを愛してるんで」なんて言われたって、納得なんかできません。みんなに平等な八方美人さんからは愛情を感じられないんです。愛情は自分で独り占めしたい。わがままかもしれない、でもそういうものなんです。だから「平等な愛」を一般的な「愛」とするのは難しい、そう私は思います。
それに、聖人君子でもなければ「平等に愛する」というのは非常に難しい行為です。どこを見ても分かる通り、日常的に私たちは好きになったり、嫌いになったり繰り返している生き物なのです。現実的な形の「愛」とは言い難いと思います。実際には「愛」は「平等」の反対語と言って良いほどの存在でしょう。「不平等」こそ、「愛」なんです。
◆
「愛」ゆえに戦争が起きてしまう――
だからといって、「愛を捨てましょう」などと言うつもりはありません。
私自身も好きとか嫌いとか言いながら日々を過ごしていますし、「愛」が無い人間なんてロボットです、人間らしくありません。全然素敵な世界じゃありません。
そもそも、私たちはどうしたって、愛することはやめられないんです。
ただ、「愛で戦争をなくそう」なんて何となく言ってるだけでは、残念ですが戦争はなくならないということには気づいてもいいんじゃないでしょうか。
確かに言葉は綺麗で、耳触りが良いのですけれど、何の解決策も出してないんです。むしろ事実誤認をしてしまう危険さえあります。
本当に戦争をなくそうと思うのであれば、戦争が愛の副産物であるという真実をまず認めて、そこからじっくり戦争を無くす方法を考えないといけないんです。
◆
「愛」は捨てずに、「戦争」を止める方法。
あまり良い案は思いつきませんが、ひとまずの私見をご紹介します。
先ほどの戦争の3要素を眺めれば、理屈上は1つしかありません。
それは「資源を不足させない」ことです。
先ほどのような極限状態に置かれては「愛」がちょびっとでもあれば、どうしても争いになりえます。
だから、日頃から資源が不足しないように、より多く、より豊かになるよう、努めなければなりません。
なにせ世界の人口はどんどん増えているので、どんどん全体の資源の必要量も増えています。そもそも、資源に余裕があれば人口は増えるんです。だから資源の供給が増えれば需要も増えて追いかけてくるというジレンマが常にあります。
だから、私たちは進み続けなければ、発展し続けなければならないのです。追いつかれれば、戦争を避ける術はありません(すでに追いつかれている可能性さえあります)。
そして、もうひとつ大事なのは、仮に全体量が足りていたとしても、誰かの資源が不足しないようにする「資源の分配」です。
誰かの周りで資源が不足しているのに、自分たちだけ潤沢に資源を抱えていれば、彼らは彼ら自身や彼らの愛する人のために蜂起してしまうかもしれません。
どこかの誰かが戦争を考えるほどに追い詰められていないか気を回して、そして、その兆候があれば、彼らを助けてあげることを考えないといけません。
しかし、これは言うほど簡単なことではありません。
その誰かが、どんなに嫌なやつでも、どんなにムカつく奴でも、助けてあげないといけないからです。
逆のパターンもあります。
自分の資源が困窮していて、「嫌いな人」が潤沢に資源を持っている場合です。
この状況でも「嫌いな人」から奪いに行かないようにするのはなかなか難しいことでしょう。
戦争を避けるには、自分たちの持てる範囲内でしのぎつづけて、「嫌いな人」からの助けを信じるしかない、理屈では分かっていてもそれを信じて耐え忍ぶのは非常に辛いはずです。そして、自分のそばに困窮に苦しむ「愛する人」が居ればなおさらです。
結局、ここでも「愛」や「嫌い」などの感情が私たちを悩ませます。
「愛する人」をいくら優遇しても良いのですが、愛しているばかりではダメで、その一方で、最低限「嫌いな人」の存在を「尊重しない」といけないんです。
「嫌いな人」を尊重すること。
これにはすごく強靭な理性を必要とします。
極端な話、自分の「愛する人」を奪った「嫌いな人」さえ支えないといけません。そうしなければ今も世界中で行われているように復讐戦の応酬になり、戦争はいつまでも続きます。
これは感情的に自然な「愛する」行為よりもよっぽど難しいことです。
多分人類史上、いまだ達成出来たことがないのでしょう。
だから戦争はなかなか無くならないんだと思います。
◆
「好きな人」ではなく、「嫌いな人」に対してどうするか。
戦争は私たちにそんな課題を突きつけます。
「嫌いな人」の存在を否定したり、除去しようとすれば、それは戦争につながります。
「嫌いな人」を尊重する、これが正解なのは理屈では分かってるんです。
理性的に対応しないと戦争はなくせないんです。
でも、本当に難しい。
だって、やっぱり「好き」だし「嫌い」なんだもの。
「好きだから」という感情に、「嫌いだけど」という理性はかなわない。
だからとりあえず根本解決にはならないけれど、できるだけ感情と理性の全面戦争が起きないように、多少分配が偏ってもなるべく資源が不足しないように、人類全体を豊かにするべく私たちは走り続けるしかないのでしょう。
「愛しつづけて」「なるべく平和で」いくためには、「豊かになる」しかないんです。
食糧、エネルギー、その他諸々、もっともっと集めないといけないんです。
その様は無様でガメつくて強欲で、醜く見えるかもしれません。
でも、泳ぎ続けないと死んでしまう魚のように、私たち人類も多分歩みを止めると死んでしまうんです。
転んでも転んでも、必死で走り続けて。
止まれば戦争という魔王に追いつかれてしまう。
だからずっと走り続けて。
いつかはきっとゴールがある・・・のかな?
P.S.
すっきりした解決策は無くてすみません。。。
考えても考えても、やっぱりなかなか「戦争」は手強いんです。
あと、「嫌いな人」の存在を認める、という理性は平和のために限らず、普段からすごく重要なことだと思っています。 なかなか難しいですけれど。