雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

世の中を治すため、「プチ悪人」になろう!

 

前回の記事で、「勤勉さ」からくる長時間労働が私たちを苦しめる一例を示しました。

ただ、「勤勉であれ」というのは私たち日本人にとって金科玉条とも言うべき美徳と言っても過言ではありません。

今までずっとそれは「正しいこと」だと言われてきたし、「正しいこと」だと信じてきました。

それを否定するというのは、理屈はそれとしても感情的にはなかなか受け入れがたいかもしれません。

でも、敢えて私は言います。

 

 世の中がおかしいなと思ったら、それは残念ながら「正しいこと」のせいなのです。

 世の中を変えたいなら、「正しいこと」に反抗するしかありません。

 

 

                  ◆

 

 

私はいわゆる性善説派の人間です。

私の家族や友人、同僚、上司、ほとんどの人は非常に善い人ばかりです。

人の幸せを喜び、人の不幸を悲しみ、他人と一緒に笑って泣ける人たちです。

正直、私の方が心根が汚れていて恥ずかしくなるぐらいです。

さらに、通りすがりの人や店員さん、旅先で一度だけあった人たち、このブログで知り合った方々など、どこに行っても善い人ばかりです。

たまたま私の周りや、私が会う人だけが「善い人」というのは考えにくいでしょう。

「周りは悪人ばっかだぜ、へへへ」という方がいらっしゃれば別ですが、おそらく皆さんの経験的にも世の中のほとんどの人は「善い人」だと思ってよいのではないでしょうか(悪い人がいないとは言いません)。

 

 

こんなに人々が温かい一方で、社会全体の空気は非常に冷ややかです。

 出口の見えない不況。

 破綻しか見えない年金。

 続出する過労死と、就職難民。

・・・などなど、暗いニュースばかりが紙面を賑わせます。

 

 

 どうしてこんなに生きるのは苦しいの?

 どうして世の中がこんなに悪くなってしまったの?

 一体、誰のせいなの?

 

みんな心の中で、疑問を唱えていることでしょう。

そして、きっとこう思っているのではないでしょうか。

 

 私たちが清く正しく生きているのに世の中がおかしいのは

 一部の悪い人たちが世の中を乱しているからだ!

 

皆がそう思っているであろう証拠に、世に「悪役」が登場した時、世の人々が彼らに対して取る辛辣な態度は凄まじいものがあります。

あんなに普段は温厚で優しい人たちなのに、それは時に残虐なほどです。

これは、現在の様々な「悪役」たちに対する反応を、テレビやネットででも見ていただければすぐに分かると思います。

私にはどうにも世の不満のすべてを彼らにぶつけているように見えるのです。

 

 

ですが、世の中がおかしいのは彼らのせいでしょうか?

注意していただきたいのは、これは彼らが「悪人」かどうかの話ではないことです。

疑い通り、彼らが実際に性根の腐った救いがたい「悪人」であったとしても、彼らこそが世の中がおかしい犯人なのかどうかは別です。

そして、私には彼らが世の中を乱した犯人とは思えないのです。

 

考えてみれば、ほとんどの「悪事」は、世の中からすると非常に局所的な行動です。

例えば「悪役」代表の一角、暴力団を考えてみても、それは分かります。

彼らは恐喝や暴力など、様々な「悪事」を働く人たちですが、世の中一般の人を手当たり次第に狙ったりはしません。

夜道に一人で歩いている人や、何らかの付け入る弱みを持っている人など、あくまで狙いやすい人のみをターゲットにします。

思った以上に密かな活動であって、「悪事」を堂々と人通りの多い公道で無遠慮に行なったりはしません。

それはなぜかというと、彼らは「善い人たち」が怖いからです。

個人個人では「善い人たち」を凌駕するとはいえ、「善い人たち」には全体の数や力で圧倒的に劣っています。

そんな「善い人たち」に目を付けられたら、彼らとてひとたまりもありません。

だから彼ら「悪人」は、基本的に「善い人たち」に気づかれないように密かに事を進めます。

 

あくまで狼は、羊の群れの目につかないように、はぐれた羊を狙うのです。

彼らは餌が欲しいだけなのです。

群れと争うことや群れを壊すことが目的ではありません。

だからこそ、群れを刺激しないように、気づかれないように動くのです。

 

他のほとんどの「悪事」も同じようなものと私は思います。

 「みんなにバレないように見えてないところを少しだけくすねる」

 「みんなにバレないように脆いところを少しだけ壊してみる」

このような「悪人たち」自身が世の中に影響を与えたくないという性質上、「悪事」の世の中への影響は限られてしまうのです。

これで世の中が根本的に悪くなるということは順当な説とは言えないと思います。

 

 

 

では、世の中に対して最も影響力が強いものは何でしょうか?

それこそが世の中での圧倒的多数派の「善い人たち」であり、その圧倒的多数に支持され実行されている「正しいこと」なのです。

そして、世の中がおかしいのであれば、最も影響力の強いこれらこそ犯人と考えるのが順当なのです。

 

 

「正しいこと」が世の中をおかしくする理由は意外と簡単です。

 

  「善い人たち」であるみんなが「正しいこと」をやりすぎるんです

 

これは冒頭の「勤勉」を考えていただければ、お分かりいただけるかと思います。

前回記事も参照していただいてもよいですが、「勤勉」でありすぎたせいで、いつのまにか私たちは長時間労働という枷を自らに課し、自らもがき苦しむことになってしまっているのです。

どんなに良い薬でも飲み過ぎれば中毒になるのと同じです。

 

 

「正しいこと」をやりすぎる理由も簡単です。

  適量なら非常に良いことであること(少なくとも良いことに見えること)。

  誰も止める者がいないこと。

の2点です。

 

例えば「勤勉さ」ですが、やはり社会のためにある程度は欲しいものなのです(「勤勉さ」が無いとどうなるかは、昨今のギリシャ財政の崩壊を見ていただければ良いと思います)。

そしてそれを止める者は「勤勉であれ」の金科玉条に抗う「怠け者」として一転「悪役」になってしまいます。

「悪事」を止めることは「正しいこと」ですが、「正しいこと」を止めることは「悪事」になってしまい、圧倒的な力を持つ「正しいこと」に叩き潰されるのです。

誰も止めることができないのです。

 

 

これは車で走ることに似ています。

アクセルを踏まず、動かないなら車の価値はありません。

だからといって、スピードを出すことに最上の価値を置いてしまうとどうなるでしょう?

一度アクセルを踏んだら、そのアクセルを踏み続けてしまいます。

いずれそれは恐ろしい速度に達し、まもなく乗っている人間ごと車は大破することでしょう。

本当はスピードが全てではないのです。

車として丁度いい速度があるはずなのです。

 

 

「正しいこと」は大事なことだけど、やり過ぎも良くない。

私たちが本当に世の中を治すためには、このことに気づく必要があります。

これはみんなが本当に「善い人」であるからこその病気のようなものです。

本当に本当に、悲しいくらいみんな「善い人」なんだと思います。

私はそれを本当は否定したくはないんです。

でも、そろそろ「正しいこと」のアクセルで社会が暴走していることに気づいて、「正しいこと」のやり過ぎを止める勇気が必要なんです。

 

 

見てください、本当は車のブレーキは効くんです。

ただ、ずっと「ブレーキは踏んではいけない」と言われ続けていただけなんです。そう思い込んでいただけなんです。

そしてもあなたはこの車のスピードが出てることにもう気づいているはずなんです。

これって危なくないですか?

そろそろブレーキ踏んだ方が良くないですか?

ちょっと踏んでみませんか?

「正しいこと」にちょっと反抗して、「プチ悪人」になってみませんか?

 

 

まあまあ、そんな嫌な顔しないでください。

私なんてこんなに反抗しちゃってるから「大悪人」ですし。

 

 

あと、ほら、言うじゃないですか。

 

  赤信号みんなで渡れば怖くない

 

そうでしょ?

 

 

そして、

 赤信号でも渡らないといけない理由が私たちにあれば

 赤信号でも渡ることで救える人たちがいるのであれば

もう私たちに迷いはないはずです。

 

無事に渡り終えた後、「正しいこと」の方が道を譲って、私たちこそがきっと真の「善い人たち」になっているはずです。

 

 

  振り返ればきっとそこは青信号です