雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

大人論

話題になっている「大人論」についてのエントリーを読みました。

どう考えても若者論より「大人論」のほうが必要です

なかなか興味深いテーマなので、私なりの大人・若者観を書いてみます。

 

上のエントリーでは、

『最近「大人たち」が多々の「若者論」を振りかざして偉そうにしているけど、自分の時代遅れを棚に上げているだけなんじゃないの。むしろ「大人たち」こそが未来に対して無責任な行動ばかりで、こんなのは本当の大人とは言えないじゃん。よっぽど「大人論」の方が必要だよ』

と主張されています(私の解釈ですので、間違っていたらごめんなさい)。

 

つまり「若者が悪いとする大人たち」vs「大人が悪いとする若者たち」の図式になると思います。

確かに、お互いの層からこの図式に当てはまる意見をよく見る気はします(「ゆとり世代」だとか「老害」だとか)。

この考え方、私も正直よくやってしまうんですよね。

上の人達は分からず屋で偉そうだし、下の人達はサボり魔でたるんでるように見えちゃいます。

私たちこそ精一杯やっているのにって。ほんとズルイって。

 

ただ、ここでちょっと考えてみたんです。

この両者の主張って結局のところ「自分たちのグループ(世代)は偉い、他のグループ(世代)はバカ」というような自分たちを特別視する主張です。

根拠のない自尊心にあふれた、言ってみれば醜い主張です。

でも、こんな世代だけで分けたようなグループで、そんなに何かが違うとか、どっちかが偉いってことはあるのでしょうか?

 

お互いに血縁ばかりで構成されてて、1世代か、せいぜい2世代かしか離れてないですし、生物学的に集団としての差はまず無いですよね。違うのは生まれた時代だけ。

だから多分、早く生まれた「私」が居たとしたら、今の「私」はたるんでるように見えるでしょうし、遅く生まれた「私」が居たとしたら、今の「私」は偉そうに見えることでしょう。

きっと今「若者論」を説いている「大人たち」も、「若者たち」だった頃は当時の「大人たち」から「若者論」を振りかざされて、腹が立って、対抗して、ひそかに「大人論」をぶち上げていたのではないでしょうか。

そして今「大人論」を用意している「若者たち」もきっと将来は・・・。

 

つまり、お互い本質的には同じで、時代とともに役割が順番に巡ってるだけなんじゃないかなと思います。

エジプト古代から「最近の若者は・・・」という言説が絶えることなく続いているってことこそが、このことを示してるんじゃないでしょうか。

きっと背景に、「大人たちが偉そうに・・・」って声もずっとセットであったんです。

「大人たち」は「若者たち」だった頃の自分を忘れてしまっていて、「若者たち」は「大人たち」になる頃の自分が想像できなくって。

「若者論」ばかりが多く見えるのは多分、「大人たち」の主張の方が社会的地位を確立した後とかで、大きく残りやすいだけじゃないでしょうか。

今だって「若者たち」もきっとみんな「大人たち」に反抗心はあると思うんですけど、「大人論」の方が影は薄いですよね。

 

じゃあ、そんなお互い一緒のようなものなら仲良くしたらって思いたくもなりますが、でも、多分それも難しいんでしょう。

歴史の大河で見れば同じようなものでも、「今」という切片で切ってしまえば、やっぱり立場が異なります。

みんなで同じ目標に向かって邁進できていれば、ある程度仲間ではあったんだと思います。

上のエントリーにもありますが70年代から「若者論」が伸びてきたそうです。

勝手な想像なんですが、これって高度成長が鈍化してきて、社会資源が飽和してきた頃ではないでしょうか。

社会資源に天井が見えてきたとなると、自分の欲望を満たすには、その内訳を増やすしかありません。

つまり仲間から奪わないといけなくなります。

天井が見えるぐらいならまだいいですが、天井が落ちてきたとしたら・・・?

 

「大人たち」からすれば「若者たち」って、若いだけに体力もあるし、頭の回転や記憶力も十分。美貌や肉体的な魅力も最盛期。勝てるのは経験と先に取ってきた地位や財産だけ。本気で襲い掛かられたらひとたまりもない。非常に怖い存在なんだと思います。

でも、負けるわけにはいかないんです。

誰しも経験があると思うんですが、得てきたものを失うというのは純粋に辛いものです。

 

絶対に渡したくない。第一、ここで負けてしまったら、純粋な個体としては再生の時間や能力ももはや残ってない。取り戻せることはないだろう。

いわゆる財産だけでなく、年齢を重ねていくと家族や社員など守るべきものも多い。自分だけの問題じゃないんだ。

だから、絶対に絶対に負けるわけには。

戦い方は分かっている。

我々の「大人たち」が我々が「若者たち」だった頃に既に身を持って教えこんでくれた。

まず、数少ない有利な条件である「経験」を出し惜しみする。そして「地位」を利用して、「大人たち」を立てる制度に殉ずる「若者たち」だけにそれを与えよう。

「経験」のノウハウがあれば、他の「若者たち」より優位に立てるぞ。

もちろん、我々がその優位な地位を保証しよう、君が我々に従っている限りはね。

・・・何?この制度に乗ってこない「若者たち」が居るだと?

まったく非道い「若者たち」だ。ほんと、最近の若者ってやつは・・・。

あーあ、育て方を間違えたな。

なあ、君だけはそんな愚かな「若者たち」とは違うんだろう・・・?

 

ポイントは「若者たち」を団結させないことです。

「大人たち」はいつも「若者たち」に従属の道を用意します。それを広くもなく狭くもなくするのがコツです。

あえて分け前を預かれる絶妙な隙間を作ることで、「若者たち」vs「若者たち」、それを監督する「大人たち」という体制を保つのです。

「大人たち」vs「若者たち」になってしまうと、実力差から革命でひっくり返されてしまいますから。

 

ともかく、対して「若者たち」も戦わねばなりません。

いかに「大人たち」が防衛する既得権益を切り崩すかの戦いです。

大人しく従属することでそこから分前をもらおうと「大人たち」の制度に乗っかる者。単身奮起独立して新勢力として「大人たち」の隙間に割り込んで戦う者。既得権益を相続する者。希望してるのに制度にさえ乗せてもらえない者・・・。

色々戦い方やその顛末はあるでしょう。

 

社会が成長している時なら制度に乗っかっていれば「大人たち」も「若者たち」も分け前が順調にもらえるので、この均衡の維持は容易でした。

ただ、社会が衰退してくると、あちこちで足りなくなってきます。すると皆必死です。

 

「大人たち」は自分の既得権益を守ることで精一杯です。

こうなってしまっては、未来に対しての責任なんて、考える余裕が無いんです。

人によっては若者をもう少し救うだけの財産の余裕もあるはずですが、奪われること失うことに、とっても臆病になってます。

「大人たち」にだって「大人たち」の中での戦いもあって、隙なんか見せてられません。

未来が分からないのは「大人たち」も一緒です。

 

たとえ、この先が「若者たち」より短いとしても、もう少しはあるんだ。

ひょっとしたらもっともっと長い可能性だってある。

第一、俺たちは今まで頑張ってきたんだ、積み上げてきたんだ。

誰にも奪う権利なんて無い。

そして、卑怯者と言われたって、俺は俺の大事な人達を守らなきゃいけないんだ。

何も持っていない若造どもにそれが分かるか?

絶対に奪わせないぞ。

 

一方、「若者たち」は「大人たち」の制度に乗せてもらえない人が続出します。

なにせ分け前が足りないんです。

もっとも、制度に乗れたとしても、昔に比べてびっくりするぐらい薄給だったりします。

 

ねえ、あなた達についていったら「地位」を保証してくれるんじゃなかったんですか・・・この嘘つき

 

そんなんじゃ、NEETにもなります。

車買う気も結婚する気も起きません。

ってか、できません。

時々ネットで愚痴をつぶやいて、ケータイで無料ゲームするしかないんです。

「若者論」なんて偉そうに説教されても、仕方がないじゃないですか。

 

だいたい、あんたたちがこんな社会にしたんだろ?責任とれよ。

 

 

こうやって世代間闘争が露わになってきちゃったんじゃないでしょうか。

「若者論」の増加や「大人論」での対抗は、この社会衰退に伴う世代間闘争顕在化の反映と言うのは言いすぎでしょうか?

 

じゃあ、一体全体、どうしたらいいんでしょう。

すみません、私にはこんな難しい問題の解決策はやっぱり分かりません。

でも、思うことはやっぱり「大人たち」と「若者たち」がいがみ合っている場合では無いんじゃないかなってことです。

所詮はお互いに同じ船の上なんです。船底に穴が開いた責任を押し付けあってても始まりません。喧嘩をして、両者とも穴を塞ぎにいかなければ一緒に沈むんです。

「若者たち」は、「大人たち」の立場をよく想像して、尊重しないといけません。なんだかんだ言っても彼らは社会を動かす「経験」や「地位」を持っているんです。

「大人たち」は、「若者たち」の立場を思い出して、バカにしないようにしてください。なんだかんだ言っても彼らの働きが社会の「エネルギー」であり「進歩の源」なんです。

大丈夫です。お互い同じなんです。生まれた時代が違っただけなんです。きっと理解し合えます。

 

必要なのは「若者論」でも「大人論」でもなくて、

お互いの「想像力」と「回想力」です。    

 

・・・多分。