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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

優しさの範囲

時には感傷的に

私たちは優しい人間でありたいと思うけれど、それはとても難しい。

 

正確に言えば、

誰もかもが実は優しい人間で、

だからこそ自分が優しい人間であると言うことが難しい。

 

非常に残忍に見えるあの人も、

非常に冷酷に見えるあの集団も、

彼ら自身だったり、

彼らの仲間だったり、

彼らの国だったり、

彼らの宗教だったり

に対してとても優しいだけ。

 

ただ、私たちが思う優しさの範囲を持っていないだけ。

私たちが彼らの優しさの範囲に入れていないだけ。

 

だから、実は彼らも優しい人たち。

 

 

これは別に変なことではなくて、私たちだって同じ。

 

犬や猫に優しい人が、必ずしも蚊やゴキブリやバイ菌に優しいわけじゃない。

その人にとっては犬や猫が優しさの範囲に入っていて、蚊やゴキブリやバイ菌は優しさの範囲外なだけ。

かといって、動物嫌いで犬や猫に優しくない人が、人に対して優しくないわけでもない。

どこまでが優しさの範囲なのかが人によって違うだけ。

誰もかもが優しい人たち。

 

 

それでいて、優しさの範囲は広ければ広いほどいいとも限らない。

人にも動物にも虫にもバイ菌にも優しいような博愛な人が居たとして、

それはそれは確かに優しい人なのだけれど、

でも、そばに居る人にとっては自分にも他の誰かにも同じように優しいから、

その人の優しさが感じられなくなってしまう。

 

だって、人は特別に自分に優しくしてもらいたいと思ってしまう贅沢な生き物だから。

みんなに優しくてもいい、でもそれでも私にはもっと優しくして欲しい、って思ってしまう我侭な生き物だから。

他の人よりも自分が愛されてると感じる時に、この人は優しい人と思ってしまう困った生き物だから。

 

 

だから、優しい人であるのはとても難しい。

誰まで、何にまで、優しくするかという優しさの範囲をどうするかが難しい。

優しさの範囲内の誰にどれぐらい優しくするかという優しさの強度の分布をどうするかが難しい。

 

薄く広い平べったい山でもダメで、

狭く高い急峻な山でもダメで、

優しさの標高線をいったいどう描いたら優しいと言えるのか、それが本当に難しい。

 

でも、だからこそ。

 

自分が優しい人間だって言い切っちゃう人ではなく、

自分は博愛主義者だって信じきっちゃう人ではなく、

優しい人間であろうとして、でもなかなか優しい人間になれないって日々悩んで苦しんでる人こそが、

私は本当に優しい人なんだなってと思う。

 

 

だから、私はそういう人に優しくしたい。

 

 

それが私の優しさの範囲。

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S.

最近、友人との会話を通してちょっと感じたことを書いてみました。

ちなみに、もちろん私はそんなに優しい人間ではないですよ。ええ。

 

(1072文字)