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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

夢を追う人、夢を諦める人、夢なき人、夢見る人

私個人の印象としてなんですけれど。

世の中、夢を追いかけて一途にそれを続けているというのはけっこうもてはやされますよね。

 

例えば、テレビでも、仕事だったりスポーツだったり音楽だったり、今はその分野でトップランナーとなっている人の生涯を取り上げて、芽が出なかった時期があったけれど、ずっと黙々と諦めずに頑張ってきたから、今の成功がある――素晴らしい――そんな感じの流れの特集番組とか多いじゃないですか。

 

あるいは学校でも、物心付いた頃には将来の夢を書くイベントがしばしば起こります。これも暗に、この夢に向かって頑張ることを推奨しているきらいがあります。

 

いえ、夢を追うことは確かに素晴らしいことだと思います。

それはそうだと思うんです。

 

ただ、私が問題に思うのは、夢を追うことが過剰に美化されると、夢を諦めることが「敗北」として認知されてしまいかねないことなんです。

 

 

夢を諦めることは敗北か

先日、私のブログ友達のICHIROさん(id:yumejitsugen1)の本「僕が18年勤めた会社を辞めた時、後悔した12のこと」を拝読しました。

本の中でICHIROさんが、たびたび自分の夢だったり信念だったりをなかなか捨てきれずに会社の組織人として徹しきれなかったことを悔やんでらっしゃったのが印象に残っています。

夢を持っている人にとって、夢を諦めるのは意識しないととても難しいことなのだと感じさせられました。

 

夢を諦めるのが難しい原因の一つが、先ほど言ったように、夢を追うことが過剰に美化されることで、夢を諦めることが敗北扱いになってしまうことにあると私は考えます。

上手くいかないからと投げ出したり、他にやりたいことができたからと自分の力の注ぐことを途中で変更すると、「忍耐の無い奴」「信念の弱い奴」「負け犬」という烙印を他人に押されるか、他人に押されなくても勝手に自分で自分に押してしまったりします。

そんな「敗北」はやっぱりみんな嫌なので、だから夢を諦めることは難しいのです。

 

 

夢ばかり見ずに現実を見ろ

世の中で夢を追うことは美化されていると書きましたが、これを聞いてモヤモヤしている方もいるかもしれません。

だって、世の中には「夢ばかり見ずに現実を見ろ」的な空気も時折発生しているじゃないかって。

 

何となく漫画家になりたかったけど投稿作品がどうにもこうにも鳴かず飛ばずでデビューできそうな気配も無いような時、親御さんから「ちゃんと就職しなさい」というようなニュアンスで言われる感じですね。

 

これは言葉上は確かに「夢を見るな」という「夢を追うこと」の否定形になっているようですが、よくよく考えると実は構造としては違います。

 

「理想と現実」と言うように、理想と現実は一対の対義語となっていますよね。

ですから、「現実を見ろ」ということは「ここは理想ではないことを認めろ」ということです。

そして、みなさんもご存知の通り、「理想」の方には「理想的」と言うように「望ましい」「その方が良い」というポジティブ意味が込められていて、一方の現実は「現実は厳しい」のようなネガティブな意味が込められています。

つまり、この場合の「夢を追うことの否定」も「現実」と対義になる「夢を追うこと」=「理想」とする構造なので、「(できることならば)夢を追えるような(理想的な)状況の方が良い」ことは暗に認めているのです。

 

これは、「夢を追うことは素晴らしいこと」という美化方程式を保ったまま、「ここはそんな美しい理想郷ではない」「敗北を認めろ」と「仕方ないでしょ」という意味での「夢の諦め」の推奨です。

要は、体の良い降伏勧告のようなもので、「夢ばかり見ずに現実を見ろ」のような言説があるからといって、「夢を追うことが美化されてない」ことにはならないのです。

 

夢なき人と夢見る人の誕生

さて、このように、夢を追うことを美化し、夢を諦めることは敗北として忌避されたまま、「夢ばかり追わずに現実を見ろ」という言説が回ると何が起きるでしょうか。

 

それは、「夢を持たない人」と「夢を見る人」が誕生するのです。

 

一旦夢を持って、諦めると、敗北の痛みを伴います。

 

この痛みを受けずに済む方法の一つは、最初から夢を持たないことです。

夢を追うことが理想のはずなので、夢を持たないことは一見マズイように見えますが、ここで「夢ばかり追わずに現実を見ろ」という免罪符が威力を発揮します。

夢を持っていないだけなのに、夢ばかり追わずに現実的に生きている言わば「大人」であるとして、自己擁護することができるのです。

あたかも「一旦夢を追いかけたけれど自分はそんな子どものような段階は卒業して大人になったんだ」と、言うわけです。

実際には卒業したわけでもなんでもなく、スルーしただけなのですが。

 

もう一つの方法が、夢を持つだけで行動に移さないことです。

夢を持っているけれど、追いかけないわけですね。

口では「こういうことをしたいんだ」「将来こうなるんだ」と言っておきながら、実は具体的な活動は特にしていません。

しかし、一応「夢を語ること」で「夢を追いかけているような気分」に自分でなったり他人にそう思わせたりできるので、「夢を追うことを捨てていない自分」として自己擁護することができるのです。

実際には、「夢を諦めていない」のではなく「夢を追いかけていない」だけなのですが。

 

夢を諦めることは敗北じゃない

このように、夢を追うことを過剰に美化すると、そこから外れることが「敗北」のように感じられて、かえって最初から夢を追わなくなってしまいます。

これってなんか変な話ですよね。

 

だから――というわけでもないのですが、そもそも私は夢を諦めることは敗北ではないと思っています。

 

上手くいかないからと投げ出したり、他にやりたいことができたからと夢を途中で変更するのだって、何の問題も無いと思います。

それは敗北ではなく、ただ変化しただけのことです。

夢を変えちゃいけない、止めちゃいけないなんて、誰も決めていません。決めちゃいけません。決まっていません。

 

それに、それが巡り巡って良い結果をもたらすことだって少なくありません。

先ほど紹介したICHIROさんも、百貨店勤務の経験を通して商才を磨かれた結果、独立起業したショップは順調のようですし、小説家になりたいという夢を通して磨かれた文章力で、現在押しも押されぬ有名ブロガーさんとなった上、著書まで出版されています。

 

一つの夢に向かってコツコツ進むだけが人生ではないんです。

 

また、先ほどは少し否定的に書きましたが、夢を持たないことだって、アリだと思います。

やりたいことが無いけれど、とりあえず目の前に来たことに真剣に取り組んだ結果、大成したり、その取り組みを通じて「夢」「やりたいこと」が見つかってきたりもします。

ただ、私がいけないと思うのは「夢を持たないこと」で自分を「現実を見ている大人」と自己肯定するごまかしです。それをしてしまうと、いつまでも「夢を持てない人」になってしまいます。

 

大人が夢を追いかけちゃいけないわけでもないのですから。

 

 

 

まとめます。

 

夢を追いかけることを美化しすぎると、夢を諦めることが「敗北」扱いになって、心のダメージが大きくなりかねません。

そうすると、結局夢を追ってない「夢なき人」「夢見る人」の増殖を招きます。

 

夢を諦めることや夢を変えることだって、人生の形として、もっと肯定的に見られるようになったら良いなと感じます。

 

 

それが、私の夢――なんちゃって。

 

 

 

僕が18年勤めた会社を辞めた時、後悔した12のこと

僕が18年勤めた会社を辞めた時、後悔した12のこと

 

 

 

 

 

P.S.

私も実は退職組ですが、ICHIROさんの著書を読んでいると、組織によってけっこう悩みの雰囲気が違いそうだなぁと感じました。

性格なのかもしれませんが、組織人になろうと感じたことが私は一切なかったので・・。

かといって、最近の私は夢追い人になるどころか、夢見る人になってそうなマズイ感じなので、また気を引き締めて頑張りたいなと思っている今日このごろです(;・∀・)

 

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