雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

オチが無い話

どうも世間的には、「オチが無い話」というものが嫌いな方は少なくないようです。

 

ここで言う「オチが無い話」というのはおしゃべりをしている時などに、

 

「この前さー、こんなことがあってん。・・・ま、それからどうなったか知らへんけど」

とか、

 

「なぁなぁ。あれなー、よくよく考えるとなんでああなってるんやろ。前から思っててんけど、おかしゅうない?・・・いぁ、、、答えは私も知らへんけど」

とか、

 

謎を提示しておきながらも、「結局どうなったのか」「結局何なのか」などを回収せずそのまま進行する話を指します。

場合によっては、聞いてる側からすると(本人は面白い・不思議と思ってるようだけど)何が「謎」なのかさえ謎な時もあります。

 

多分聞いてる方からすると、(押し付けられた)モヤモヤが最後までモヤモーヤなまま放置される感じがするために、苦手な方が多いのでしょう。

 

でも、私はこんな「オチの無い話」が大好きです。

 

「オチが無い話」の方が、どんどん想像が広がったり、相互作用で会話が思いもよらない方向に向かったりして面白いからです。

 

 

「オチが有る話」というのは確かにスッキリはしますけれど、それってつまり既に話し手の中でストーリーが完結してしまっているんですよね。

この場合、聞き手の私は「会話の相手」ではなくて言わばただの「観客」です。

 

もちろん完全な一方通行というわけではなく、話を聞いた後、「感想」「反応」などという形で話し手に返すことはできます。

でも、それも「(この話)面白いでしょ?」とか「(あなたも)ひどいと思うでしょ?」など、その「期待される反応」つまり「ウケ」まで含めて、会話の流れが事前に作り上げられてしまっているきらいがないでしょうか

 

ダメとは言いませんが、せっかく「会話」という相互作用ができる場なんですから、「オチの有る話」だけというのはちょっともったいない気がするんです。

 

例えば、おしゃべりをしててなんかすっごく話が盛り上がったけれど、

「そういえば、もともと何の話だったっけ・・・?めっちゃ脱線した気がする。ま、いいけど(笑)」

ってなる時ありませんか?

何気なく一人が放った「オチが無い話」が連想ゲーム的に更に次の「オチが無い話」を呼び、ぐっちゃぐっちゃなんだけど楽しいという、こんな会話。

こんな風に話が参加者達にも予想できない方向に突き進む会話は、自分の持たない新たな視点を次々と見せてくれて、脳にすごく良い刺激になります。

 

これが「オチが無い話」の真骨頂だと私は思うんです。

 

 ◆

 

この「オチがある話」が好きか、「オチがない話」が好きかというのは、会話というものに対して、「収束」「発散」のどちらを求めるか、ということなのでしょう。

人が集まった時に、「解決」を求めるか、「問題提起」を求めるか、とも言い換えられますね。

 

会議なんかでも、「○○問題の解決を話し合う会議」というものはちょこちょこありますよね。これは会議を通して「○○問題」に「オチ」をつけようとしているわけです。

人の会話に「収束」や「解決」を期待するやり方と言えます。

 

一方で、会議にも「発散」「問題提起」を目的とするものがあります。

みんなでブレインストーミングなどされたことがある方はイメージが沸くと思うのですが、思いつくままにみんなで無制限にアイディアを出しあう、いわゆるアイディア会議の類がこの「発散型会議」にあたります。

 

これは会議を通して「問題の解決」を図るのではなくて、「新しい視点」「気づかれてない問題点」を求めていて、先ほどの「収束型会議」と逆に、会議が終わった後はむしろ「問題」が増えちゃうこともあります。

 

このような「発散型会議」というのにも、確かに大きな枠での「テーマ」がありますから、それはある意味で「解決すべき問題」と言えなくもありません。

でも、実際にアイディアを出し合う時には「この会議中にこの問題に結論を出さないと」と思えば思うほど、かえって「あ、ちょっと思いついたことあるけど、関係ない話になっちゃうかな」と萎縮してしまって、新たなアイディアがなかなか出なくなってしまうんですよね。これでは本末転倒です。

それに案外、「関係ないかも」という話が、他の人の意見との連鎖で意外といいところに落ち着いちゃったりするから世の中分からないものです。

 

だから、「関係ないと思っても、間違ってるかもと思っても、とりあえず思いついたらみんなに言ってみよう」というのが「発散型会議」のコツとして言われています。

 

私としてはこの「発散」「問題提起」の性質が、「会話」「会議」ならではの素晴らしい力と思うんですよ。

 

 

既存のデータや問題点を並べて考えて「解決」や「収束」に至る、「考えをまとめる」のは、割りと一人でもできると思うんです。

むしろ、皆さんも経験があると思いますけど、うるさかったり茶々が入ると考えに集中できなくなりますから、静かな部屋で一人で外部の刺激を抑えてじっくり構えた方が「まとめる」のには向いているのではとさえ思います。

 

 

一方、「発散」「問題提起」は一人でするのは大変です。

なぜって、「自分の視点」しか無い中で「新たな視点」を築こうというのは、そもそもからして矛盾をはらんでいるからです。どうしても自分の中での偏見や常識に阻まれやすくなってしまいます。

 

一人で何かアイディアがないかウンウン唸って考えるよりも、ちょっと散歩して外界の刺激に曝された方がアイディアを思いつきやすいのも、やっぱり一人では「発散」という行程が難しいものだからではないでしょうか。

 

だからこそ、会話による「発散」が大事で、貴重なものだと思うんですよ。

 

 

 ◆

 

 

会話に「収束」と「発散」のどちらを求めるか。

究極的には好みの問題かもしれません。

 

でも。

 

「オチが無い話」――確かにちょっとモヤっとしますけれど――そこに秘められた可能性と、そして何よりその楽しさについて、もっと見直されたらなーと、「オチ無し話ファン」の私は思うのです。

 

 

 

皆さんは、いかがでしょうか?

 

 

 

 

 

 

P.S.

という、オチが無いお話(/ω\)

 

久々の更新で、すみません!

書き方が何だか分からなくなってます(笑)

 

(2497字)

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