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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

ちきりんさんの科学教育論をめぐる議論がすれ違ってる気がする

ちきりんさんのこの記事が話題になってます。

下から7割の人のための理科&算数教育 - Chikirinの日記

 

学校で全員に画一的な科学教育をすることをいつものちきりん節でバッサリと批判したこの記事ですが、そこかしこで多くの批判を浴びています。

 

代表的なのがこちらの記事。ブコメにも多数の反ちきりんコメントが並んでいます。

ちきりん氏のお粗末な科学教育論 - バッタもん日記

 

あるいはクラゲさんも参戦しています。

「ただの知識」だけ学校で教えてもあまり役には立たない - 脱社畜ブログ

 

で、私もほにょほにょと、この流れを拝見していたのですが、ちきりんさんの記事は相変わらずおちゃらけすぎてはいるけど主旨にはとても賛同できますし、一方のバッタもんさんやクラゲさんのスタンスも「ほんとそう」と等しく賛同できるものです。

 

批判者と被批判者に同時に賛同しているのは変と思われるかもしれません。

 

これは何もダブルスタンダードしているからではなく、みんな同じ背景から同じ流れで意見を言っているけれど議論が不幸にもすれ違ってるように私には思えるからです。

 

 

具体的に見ていきます。

 

まず、ちきりんさんの記事の主旨を私なりにまとめるとこんな感じです。

 

数学や理科に興味が無く才能も無い子に一律にどんどんレベルアップした内容を教えても途中で落ちこぼれるだけで結局役に立たないし無駄。

意欲や能力のある子にとっても授業のレベルが低くなり、もったいない。

画一的な教育は諦めて、意欲や能力のある子は早くから高度な教育を受けられるようにしつつ、意欲や能力の無い子は代わりに実生活にもつながる事例でリテラシー教育につなげるなどして、どこかの時点で(意欲や能力に応じて)教育内容を分離したらどう?

科学以外にも学ぶべきことはいっぱいあるんだし。

(雪見まとめです)

 

対して、バッタもんさんの記事を追ってみます。

いつどこで何が役に立つかわからないからこそ、子供の内から色々なことを学校で学ぶ必要があるのです。

(中略)

子供の適性など誰にもわかりません。「どうせ理解できないから理科教育は必要最低限でいい」などと称して子供の可能性を狭めることはあってはならないことです。向上心や努力の否定にもつながりかねません。

 

例えばこの批判の部分なんですけど、正直なところちきりんさんの主張と矛盾しないんですよね。

 

ちきりんさんは「科学も大事かもしれないけど科学以外にも大事なことがある」「科学が苦手な子に(科学以外の勉強や体験も可能なはずの)時間を費して無理に科学を教えるのは子どもの可能性を狭めること」のスタンスで、これはまさしくバッタもんさんの主張の裏返しです。

 

ちきりんさんは繰り返し本文中にも書いているように「科学の能力や意欲がある人の教育を抑えるべき」とは言っていないんですよね。

むしろ、意欲がある子の勉強をより進めようと主張しているので、子どもの向上心を重視している意味では、結局のところバッタもんさんと同じ意見のように思います。

 

また、バッタもんさんの

科学の基本は考えることです。考える訓練を受けずに上っ面の知識だけを身に付けることはいささか危険です。なぜならば、子供の内に科学的な思考法を身に付けていないと、知識が正しいのかどうか自分で判断することができないからです。

この部分ですが、ちきりんさんも

日本には血液型判定を始め、偽科学的が溢れているし、科学的な思考とは何か、ということはしっかりと教えた方がいいと思います。

(中略)

「全員に与えるべきは、技術者や研究者になるための専門教育ではなく、生活者として自己決定ができ、健全に安全に生きていけるようになるための科学リテラシー」

としていて、科学的思考に基づく自己決定ができるようになるのが重要という点でも実はお二人は同じことを言っているように思います。

 

「台形の計算方法はググればいいから理解しなくていい」と言ってしまうなど、「知識が大事で考え方が大事じゃない」というように記事が受け取られたのは確かにちきりんさんの失策と思います。

けれど、ちきりんさんも一応「科学的な知識」と「科学的な思考」と単語の使い分けをされているので、「必要なのは考え方」という点は多分ちゃんと押さえてるんじゃないかなと私は感じました。

 

 

まとめますと。

 

ちきりんさんにとってはこれは多分「馬の耳に念仏」という課題をどう解決するかという議論なんです。

 

「念仏(科学)が大事」ってのは前提で、しかし現実に馬(意欲や能力が無い子)にそれが伝わってないとすれば「念仏を与えるのを諦める」か「念仏を馬にも分かるように工夫する」かしかありません。

 

その中で「念仏以外にも色々学ぶべき大事なことはまだまだいっぱいあるから無理に念仏を押し付ける必要はない」とする「前向きな念仏諦め」、および「でもどうしても知ってもらいたい科学的思考の基礎は生活に則した具体事例を通して教えたらどうか」という「念仏を伝える工夫案」を主張したのが今回のちきりんさんの記事で、そこに「念仏は大事」「念仏を馬から取り上げるとはけしからん」と批判しちゃうのは申し訳ないですけれど議論がすれ違ってはいないでしょうか。

 

もちろん私はちきりんさんではないので、ちきりんさんの意図を正確に把握しているわけではないと思いますが、今回の一連の記事を読んで、こういう読み方する人も居るんだなーと参考になればと思います。

 

 

 

 

<参考記事>

ちなみに、私も以前にこのテーマに近い記事を書いています。

学校は世界の紹介所 - 雪見、月見、花見。

私自身の意見はこちらを読んでいただければ♪

 

あとこれもちょっと関係あるかな?

 ニセ科学をバカにする前に ~科学という名の宗教~ - 雪見、月見、花見。

 

 

 

 

P.S.

ちなみに「下から7割」という表現も、子どもをバッサリ2分するように受け取ってる人が多いようですけれど、子どもの意欲に従えば誰が分けるでもなく「物理がやりたい子3割」「英語がやりたい子3割」のように自然と分かれていくはず、というイメージな気がします。

誤解を生みそうな表現で私もどうかなーと思いますけれど。

 

(2499字)