雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

なぜ人は努力するのか

「あなたは努力が足りない」

とか、

「私は大変に努力したので、成功できました」

とか、

そんな自分や他人の努力を量るような言葉たち。

人の努力の量をさげすんだり、自分の努力の量を誇ったりする言葉たち。

 

そんな言葉を目にする度、耳にする度、私は何となくモヤモヤいたします。

 

人にとって、努力は必要無いとか、努力が重要じゃないというのではないです。

もちろん、ある人の努力が実際に足りないことも、またある人の血の滲む努力が実って成果があがったこともあるでしょう。

 

私たちは努力して色んな困難を切り抜けないといけませんし、そして多くの方々の努力の恩恵を被っている、それは多分事実なんだと思います。

でも、それと、「努力が量れるかどうか」と「努力を比べられるかどうか」は全然別問題だと思うんですよね。

 

努力って、すっごく主観的なもので、その量というのは、他人には分からないものではないでしょうか。

陰ながら練習するとか、陰ながら勉強するとか、陰ながらウンウン思案するとか。

本人にしか気付きようの無い「努力」というのはいっぱいあります。

 

また逆に、人から見て「努力」しているように見えても、それが本当に「努力」しているかどうかは分かりません。

見られている時だけ「すっごく頑張ってるように」見せてるとか、結果が良ければ「努力しているように」見えるとか。

めっちゃ頑張ってるように見えるあの人も家に帰ればちゃらんぽらんかもしれない。

めっちゃ成果をあげたあの人も、実は単なる天賦の才で、特に苦労もなくチョチョイのチョイで成し遂げたのかもしれない。

 

でも、「努力」して見える。

 

私たちが他人の努力の量を評しようとする時、その根拠というのは案外薄弱です。

きっと私たちは、努力したけど表向きその姿が目立たない人や目に見える成果が上がらない人の努力を過小評価をして、努力してないのに表向きがんばって見える人や目に見えた成果が上がった人の努力を過大評価してしまいます。

 

そもそも、「客観的に」努力を評価するって、気持ち悪くないですか?

他人が「客観的に」誰かの努力を比べて、それを評価基準にすることが普通になれば、人は一見努力してそうに見せる行為や、一見難しそうだけど実は簡単に成果が上がる課題にばかり取り組むことを推奨することになります。

「努力してるように見せる努力」が始まります。

 

私がいつも批判してる、「とりあえず残業することでがんばってるように見せる」という行為はその最たるものです。

でも、これもその人が悪いというよりは、そんな「努力している姿」を重視しすぎてる環境の方がおかしいんです。

 

 

だから、「努力」って、

「私はこんなに努力した」とか、

「あなたは努力してない」とか、

そんな風に量るものではないと思うんですよ。

 

それは悲しいぐらいに主観的で、個人的なもので。

自分の努力を誇ることも、人の努力をさげすむことも、多分「努力」の本質には合ってません。

「努力」は人に見せたり、人に評価してもらったりするものでは無いはずです。

 

たとえあなたが大変な努力をして成功したのだとしても、他人から「才能がある人はいいわね」と言われればそれは反論は不可能です。

それにわざわざ対抗して「私はこんなにやった」とか「こんなに努力した」と説得を試みるのは、残念ですけどそれこそ「無駄な努力」だと思います。

だって、それはどうしたって証明できないから。

 

でも、本来そうやって「他人に自分の努力を分かってもらえるよう」説得する必要も無いんです。

 

他人には分からない、

他人には量れない、

他人には比べられない、

「努力」はそんな主観的な存在だからこそ。

 

それが誰のためになされるか、誰の視線を意識してなされるかと言えば、それは他でもない「自分自身」ではないでしょうか。

 

見せかけで「努力しているように」他人を騙せても、自分を騙すことはできないから。

自分には嘘をつけないから。

自分だけは「努力しているかどうか」分かるから。

 

だから、「努力」は本当に純粋に「自分のため」のものなんです。

 

人に見せるものでも、人に褒めてもらうものでもない、全くの自分のもの。

「努力してるかどうか」は、「好き」とか「嫌い」とか、喜怒哀楽とか、そんなのに近い、自分の、自分による、自分のための感情。

 

自分が心底「頑張った」と思えるなら、それは本当にがんばってます。

自分が「ちょっとサボっちゃったな」と感じるなら、それは本当に手を抜いてます。

 

自分が「頑張ってない」ように思うのに他人が「頑張ってる」と評価してくれたり、逆に自分が「頑張ってる」ように思うのに他人が「頑張ってない」と評価してきたり、そんなのは関係ないんです。

他人の評価に関係なく、自分が自分で「努力している」と感じるかが、全てなんです。

 

そして純粋に自分の中で「努力している」実感を得ることが、私たちに大事なものをもたらします。

 

それが、私の思う、「人が努力をする」最大の理由でもあります。

 

例えば自分で「努力が足りてない」と思う時、たとえ成功していたとしても、「たまたま才能があっただけじゃないか」「運がよかっただけじゃないか」、そんな疑問が自分の中で浮かび上がってしまいます。

その成果は、たまたま与えられたもので、自分で手に入れたものではないんじゃないか、そう感じる余地を残します。

富豪の家に生まれついたから、簡単に高価なものが手に入るとか。

親が有名だから、コネで自分も有名になれるとか。

客観的には高評価を得られても、自分の中で「自分の成果」に思えない。

人から見れば順風満帆なはずなのに、なぜかすき間風が吹いているような、なぜか満ち足りない、そんな感覚です。

 

なんでそんな寂しい気持ちに陥ってしまうかといえば、きっとそれは自分の中で「努力している」実感が無いからです。

 

お金でも物でも地位でも何でもいいですけれど、「他人から評価が高いもの」を集めてくるのが必ずしも自分の心を満たすことにつながるとは限りません。

それよりも、純粋に「自分が欲しい」と思ったものを、人から与えられるのではなく、「自分の力」で手に入れること、その方がおそらく効果が高いです。

この「自分の力」で手に入れたんだという実感を得るために、必要なものこそが自分の中で心底「努力した」という実感です。

「努力した」という自覚無しには、「自分で手に入れたもの」ではなく、「才能」や「運」など、「与えられたもの」ではないかという感覚を打ち消すことができないからです。

 

そう、「努力」は言ってしまえば、「自分を説得するため」に行うものなんです。

人にとって高いハードルかどうか、低いハードルかどうか、ではなく自分にとって高いハードルだったかどうか、それを自分の力で越えたのかどうか。

自分の力で越えようとしたのかどうか。

それを証明するために必要なんです。

 

一般における高いハードルを越えても、人からは「才能がある人はいいよね」と揶揄されるかもしれません。

一般における低いハードルを越えられなくて、人から「努力が足りない」とバカにされるかもしれません。

 

でも、それは関係ないんです。

そんなのどうでもいいんです。

だいいち、反論しようとしたって、証明することもできません。

 

そうではなくて、自分にとって、それが高いハードルなのかどうかが大事なんです。

努力しても届かないハードルなのか、努力してようやく届いたハードルなのか。

そんな高さの実感が大事なんです。

そしてそれを感じるには「努力」が欠かせないのです。

 

 

自分で心底納得のいく「努力」って、実際のところ、人に見せる用の「努力」より多分大変です。

なにせ、人は騙せても、自分は騙せませんから。

そして、他人から評価されるどころか、場合によっては馬鹿にされることさえありますから。

だから、何だかんだで、私たちは、人に見せる用に「努力」しちゃってることは少なくないのかなと思います。

 

でもその時こそ、おそらく――誤解を恐れずに言えば――「努力が足りてません」。

 

人から「頑張ってるね」って褒められても、人から見れば羨むぐらいの成功を収めているとしても、何か心の中に穴を感じるというなら、多分それは自分に見せるための「努力」が足りてないんです。

「自分が欲しいもの」を「自分の力で手に入れた」という感覚、それが欠けているんです。

人目を気にした「努力」は、その成果が「自分の欲しいもの」でもなかったり、「自分の力で手に入れた」ものでもなかったり。

 

虚しくなるのは、そこに「自分」がいないから。

 

そうではないでしょうか?

 

 

 

まとめます。

 

「努力」は人のため、人に見せるためにやるものではなく、自分に見せるためにやるものです。それはあくまで、客観的に評価できない、主観的な価値だから。

 

自分に見せるための「努力」は自分には誤魔化せない、だからこそ、強烈な実感として残ります。

頑張ってると感じるなら、頑張ってます。

頑張ってないと感じるなら、頑張ってません。

たとえ他人が何と言おうとも。

 

そんな自分のための「努力」こそが、自分で自分が何かを得たという感触を得ることにつながります。

自分が自分で「その成果は自分のものである」と証明するために不可欠なんです。

「努力」の実感なく、何かを手に入れたとしても、それは「たまたま運良く与えられたもの」の疑念がつきまとうから。

 

「努力」して、手に入れて。

そうして、初めて人の心は満ち足りますし、そして自信が持てるようになるんです。

自分がココにいるって実感てきるんです。

それが「努力」の意義なんです。

 

だからあまり、個々の「努力」を比べたり相対評価しないで欲しいです。

それをすればするほど、何かが曲がっていく気がして仕方がないので。

 

誰が誰より頑張ってるとか、そんなの誰にも分からないはず。

 

――そう、私は思います。

 

 

 

「見せかけの勤勉」の正体

「見せかけの勤勉」の正体

 

 

 

P.S.

ちょっとうまく説明できたか自信がないですけれど・・・。

 

私自身が「努力が足りない」なぁって、最近よく思うので。

人が褒めてくれる度に、かえって、辛い時があって。

実際には、この人は小手先が上手いから、けっこうごまかしてるんですよー。

だから、申し訳なくなってしまうことが多々あって。

頑張りたいです。