雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

定義の定義、意味の意味。

コンビニ店長さんが引退されてしまったようでして。

引っ越します - 24時間残念営業

私もいつも楽しく拝見させていただいたので、すごく残念です。

 

ただ、私自身、時折消えたくなる衝動がある方なので、色々しんどくなってブログから一旦引いてしまうという行動に対して、あまり「頑張って」とか「戻ってきて」とか言いにくいところ。だから、今はほんと、ただただ「残念です」としか言えません。

 

おそらく店長さんが辞めたくなられた理由は色々あるのでしょうけれど、きっかけとなったのは一応この記事のようです。

なぜコンビニ店長の文章はぼやけているのか

今回の店長引退の引き金を引いたということで、この記事の著者の方に多数の方から非難の声が上がっていますが、これらの声を拝見していると、「こういうネチネチとした批判を書くな、消えろ」という非難が目に付きます。

私は何だかんだで「批判を書く自由」もある程度は認められているべきと思う方なので、なかなか「批判を書くな」や「消えろ」までは言い難いなぁという立場なんですよね。

だから、その批判記事を書いたことそのものについての非難の声には、申し訳ないですが、私はあまり同意できません。

 

ただ、だからといって、この批判記事を擁護するつもりもありません。私にとってはやっぱり、この批判の主張そのものに違和感があるからです。

そう、彼(彼女)を非難する際、まず焦点にするべきは「記事を書いたこと」ではなく、やっぱり「記事の内容」すなわち「その批判の主旨」なのではないかと思います。

 

  ◆

 

さて、今回の店長さんへの批判の記事の中には、今回の批判の主旨の具体例と思われる

 

今回の記事は、学の無い店長の弱点が露骨に出ている。

オタクという言葉の意味を具体的に定義しないまま、あの人はオタクかどうか、自分は本当にオタクなのかと思案する愚かさに、店長は全く気付いていない。
オタクの意味を知らないで、どうやってオタクを判別するつもりなのか。

 

という部分があります。

 

店長さんが「オタク」について考えられた最近の記事に関しての言及だと思われますが、私は全然「オタクという言葉の意味を具体的に定義しないまま、あの人はオタクかどうか、自分は本当にオタクなのかと思案すること」を愚かとは思わないのですよね。

 

確かに、この手の言説は比較的よく耳にします。

「◯◯の定義を先にしないと議論が進まないよ」とか「その主張は△△の定義が間違っていて話にならない」など。

何かの意見を主張する場合にはそれに先立って「使用する言葉の定義をせよ」、そういう圧力ってありますよね。

 

実際、私自身、過去にそのようなご指摘を受ける経験がありました。

「◯◯の定義をまずはっきりして」と言われましたので、「むむ、確かにそのあたりがおざなりだったかなぁ」と素直に反省しまして、「じゃあ、この言葉は私の中でどういう定義になるかなー」と再検討をしてみたんです。

 

でも、これがまた全然定義が決められないんですよ。

 

あんなにイメージが豊富に浮かんで、散々文章の中で使っていた言葉なのに、厳密にはどういう意味なのか自分で説明できないんです。

 

  ◆

 

不思議な状況に、しばしボーッと「なんでこの言葉が定義できないんだろう」と考えていて気がついたことがあります。

 

それは、「定義をもとに何かを主張する」のではなく、「定義をもとにしたような主張を提示することで定義そのものを主張する」こともあるということです。

先ほどの店長さんのオタク記事の例で言えば、あの記事は、店長さんの中での「オタクの定義」をもとに店長さんの中での「オタクの分類」を語っているのではなく、店長さんの中での「オタクの分類」を提示することで店長さんの「オタクの定義」を語っている記事なのではないでしょうか。

 

「オタクの定義」そのものを主張している記事だとすれば、そりゃ「オタクの定義」を最初に明示することができないのも当然です。

 

だって、

「この記事の中ではオタクの定義は◯◯とします」

「従ってこの記事の結論はオタクの定義は◯◯ということです」

という理屈では、いったい何を言いたいんだか、さっぱりわかりませんよね。

 

ですから、むしろ実際の構図はこうなると思います。

「みなさんのオタクの定義はこのような感じでしょう」

「かくかくしかじかの理由で◯◯さんはオタクで、△△さんはオタクじゃないように思えませんか」

「従って、この記事の結論は私のオタクの定義はこんな感じということです」

 

つまり、このタイプの記事においての前提となる「定義」とは「みんなの心の中にある定義」なんですね。その「みんなの定義」を「自分の定義」に引き寄せるのが記事の主旨になるのです。

それなら、前提に「自分の定義」は置けませんよね。

 

  ◆

 

しかし、たとえ記事の構造がそうなっていて、そのために前提に「自分の定義」を置けないとしても、前提となる「みんなの定義」や、結論となる「自分の定義」は文中に結局明示されてないじゃないかと言われるかもしれません。

 

つまり、記事の中では先ほどの例での

「みなさんのオタクの定義はこのような感じでしょう」

の部分や、

「従って、この記事の結論は私のオタクの定義はこんな感じということです」

の部分がなく、

「かくかくしかじかの理由で◯◯さんはオタクで、△△さんはオタクじゃないように思えませんか」

だけしかないじゃないか、ということですね。

 

このあたりの具体的な定義が欠けていることが、「ぼやけている」という批判の対象になっているのだと思いますが、この定義を欠いた理由は「私が自分が使った言葉の定義が決められなかった」背景とおそらく共通しているのです。

 

それは、どうしても自分の中の「ある言葉」のイメージを表す具体的な言語表現が見つからない場合があるということです。

イメージを言語化できない場合がある、と言ってもいいでしょう。

先ほどのオタクの記事の例で言えば、自分の中で「オタクの定義」の「イメージ」はあるけれど、それを表す具体的な「言語表現」あるいは「言語記述」が見つからないということに当たります。

 

もとの批判記事のように「体系的に知識を得た経験がなく、なんとなくしか考えられないからだ」などと、その言語表現の乏しさ、つまり語彙や表現方法のストックの貧しさが、イメージを言語化できない理由だという考え方もあるでしょう。

例えば、私たちが全然言葉の通じない外人さんなどとコミュニケーションを取ろうとした時には、その外人さんに意思を伝える「語彙や表現方法」が足りないので、仕方なくボディランゲージなどで「何となく」イメージを伝える手段に出ますよね。もし、言葉さえ分かれば、口で説明することで、自分の意思を伝えることができるのにと思いますよね。

ですから、語彙力が足りないからイメージを具体的な言語に落とすことができず「ぼやけた文章」になってしまうのだ、という主張にも一理がないとはいえません。

 

しかし、そんなにイメージの言語化というのは簡単なものでしょうか?

 

  ◆

 

例えば、みなさんは「水」を言葉で適切に説明できるでしょうか。

私はうまく説明できる自信が無いので、一般的に言葉の定義や意味を知るときに頼られる存在である辞書を引いてみるとこのようにこのようになります。

 

水素と酸素との化合物。純粋なものは無色・無味・無臭で、常温で液体。1気圧ではセ氏零度で氷に、約100度(99.974度)の沸点で水蒸気になり、密度は4度で最大。他の物質に比べて比熱・融解熱・気化熱が大きく、さまざまな物質をよく溶かす。地球上に広く分布し、海洋・氷雪・湖沼・河川・地下水や大気中の水蒸気などとして存在し、自然界を循環する。動植物体の構成成分としても大きな割合を占め、生命に不可欠。化学式H2O

-goo 辞書

 

ええ、ものすごくしっかりした説明ですよね。

ですが、こう言うとどうでしょう。

 

「ふーん、水は水素と酸素の化合物ねぇ。じゃあ、水素の定義は?酸素の定義は?化合物の定義は?それらが示されないと水の定義が具体的にならないじゃん」

 

屁理屈だって、怒りますか?

子どもみたいなこと言うなって呆れますか?

 

ですが、「具体的で厳密な定義を求める」という行為は本質的にはこのような永遠の蟻地獄をはらんでいるものなのです。

 

みなさんは、昔、辞書で引いてみたことはないでしょうか。

 

「意味」の意味はなんだろうって。

 

これをやってみると、ほんと恐ろしいことにループしたりするんですよね。

 

「意味」⇨「言葉が示す内容」

「示す」⇨「考え・気持ち・反応などが相手に伝わるように、何かの方法で表して見せる」

「表す」⇨「ある特定の意味を伝え示す。意味する。」

 

ほら、今、やってみただけでも、あっという間にグダグダになりました(笑)

 

お分かりの通り、イメージの言語化は全然簡単なものではありません。

少なくとも、どこかでイメージをイメージのまま置きっぱなしにしないと仕方がないところが出てしまいます。

そう、私たちは結局のところ、言葉を「具体的な定義」なんかではなく、「イメージ」でとらえてるに過ぎないのです。

 

  ◆

 

考えてみれば、当然なのかもしれません。

イメージはほぼ無限と思える広がりを見せるのにもかかわらず、言葉というのは膨大とはいえあくまで限られた単語や文法などで構成されているものに過ぎません。

そんな中でイメージを完全に言葉で定義するというのは不可能(せいぜい超困難)で仕方がないところと言えそうです。

 

例えば、デジタルカメラで撮った花の写真が、花を完全に表現できているかと言えば、細部をみればやっぱりピクセルでガタガタしていますよね。これでは完全に表現しているとはいえません。でも、これも仕方がないですよね、どんなに頑張ったってデジタルカメラは限られた画素数で絵を作るしかないのですから。

頭の中のイメージを言葉で定義しようというのも、本質的にはこのような難しい行為なのです。

 

だから、イメージを言語化できない場合、語彙が足りなくて説明できないという可能性もよいですが、言語自体の方がイメージを表すのに全然足りてないという可能性も同時に考えるべきでしょう。

 

「水」のような、ある程度みんなのイメージがかなり似通っていると思われる単語ならいいでしょう。これが実際には簡潔な定義であっても伝わるのは、定義が素晴らしいからというより、彼らの中のイメージと大きく違わないので、誰も「酸素の定義は?」などと言わず、「酸素と水素の化合物ね、そうだよね」と彼らの中でうまく補完して納得してくれるからなのです。

 

ですが、一方で「オタク」のような単語は、みんなのイメージが統一されてない、その解釈でしばしば議論が起こるほどの単語であるために、各自のイメージの補完が効きにく、みんなを納得することができる定義を示すのは非常に困難になります。

また、「オタクの定義」を記事のテーマにする人自身の中でも、多くの人のイメージに触れる中で、そのイメージが揺れ動くために、その定義を具体的に示すのはさらに難しくなってしまうのだと思います。

 

  ◆

 

このように、イメージの言語化、あるいは言葉の具体的な定義を示すことは、人々の間でのその単語のイメージが統一されてなければされてないほど難しいと言えます。

これは例えば、特定の英語の単語のイメージが日本語では説明が難しかったり、逆もあったりすることを見れば何となく実感がありますよね。

 

かといって、みんなのイメージが比較的統一されている「水」の定義やイメージについて語ることは、本当に斬新な「水」の定義でもなければ、多くの人にとってあまり面白くありませんし、語る動機も出てこないでしょう。

だからむしろ、人はイメージがとらえにくいものほど、そのイメージを少しでも固めるためになんとかして言語化してみようと試みるのではないでしょうか。その方が面白いですし、何より言語表現のフロンティアだからです。

 

私はその一つの形が先日の店長さんの「オタク」の話だと思うんですよね。

 

自分の中での「オタク」のイメージをみんなに伝えたい、でも言葉での説明が難しいから、何とか「かくかくしかじかの理由で◯◯さんはオタクで、△△さんはオタクじゃないように思えませんか」といった少し漠然とした議論をするところまでで精一杯で、「みなさんのオタクの定義はこのような感じでしょう」「従って、この記事の結論は私のオタクの定義はこんな感じということです」などといった具体的な定義なんてとても提示できなかったのでしょう。

 

その結果、

「かくかくしかじかの理由で◯◯さんはオタクで、△△さんはオタクじゃないように思えませんか」

の部分だけが残ります。

 

表現が難しい単語を相手にした苦渋の末の「自分の中でのオタクの分類例」の提示です。少し漠然としてはいますけれど、しかし、これはやっぱり店長さんの中での「オタクの定義」の表れに他ならないのです。

つまり、言ってみれば、「店長さんの中でのオタクの定義」は「あの記事全体」なんです。

 

そこに、どうでしょう、「オタクの具体的な定義を示してないから文章がぼやけてる」なんて言う批判。

そりゃ、ショックを受けても仕方がないかもしれません。

 

 ◆

 

もちろん、これまでの話も、一つの考え方でしかないでしょう。

先ほど書いたようにいわゆる「語彙力や表現力が足りない」という考え方もやはり一理はあるからです。

 

これは結局のところ、「イメージが言葉に入りきる」と思っているかどうか、の認識の違いが「定義」に対する姿勢の違いとなっているのだと思います。

 

確かに、「イメージは言葉に入りきる」という考えの人から見れば、まだまだイメージを十分に言語化できず、イメージの域を脱していない文章は、「ぼやけた文章」で愚かに見えるのかもしれません。

 

しかし、一方で「イメージは言葉に入りきらない」という考えの人から見れば、やたらと「具体的な定義を求める姿勢」というのも、「言葉で説明しきれる程度の思考力や想像力しかないんですね」と、笑うことはできるのです。

たとえ、どんなに「はっきりした定義」だとしても、それも基礎の基礎をちゃんと眺めてみれば、結局はイメージという漠然とした存在に支えられている砂上の楼閣に過ぎないのですから。

 

 

最後に。

ブログの記事は、「定義」などを用いてできるだけ客観的に議論するルールを前提とした学術論文ではないのですから、あくまで、そのリング外で「定義」の前提を求めるなら、まずご自身から「定義」の「定義」を「定義」してみてはいかがでしょうか。

きっと、「定義の定義」も分からないのに、他人が「定義」を示さないことが愚かなのかどうか思案する愚かさも既にご存知でしょうから。

 

 

 

P.S.

店長さんがいなくなって寂しいという話をしたかっただけなのに、何だかまた長くなってますね・・・(/ω\)

 

このあたりの議論は多分ウィトゲンシュタインの流れを組む論理実証主義のややこしいお話につながるところでしょうか。

 

で、ええと、もちろん、私も「言葉の定義」を確認したり求める行為が不要とか無意味と言っているわけではありません。

しかし私は、やっぱり言外のイメージの力というのは、あると思っている方です。

言葉の定義についても、まずイメージで大きく近づいて、言葉で微調整して精密な位置を特定する。そんな感じで認識しています。

ですから、その乖離したイメージをまずすりあわせようという段階の店長さんの記事に、「言葉の定義がどう」とか言っても仕方がないと思うんですよね。。。

 

・・・ああ、うまく、このイメージが言葉で説明できませんが(;・∀・)スミマセン

 

 

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