雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

私たちを動かす5つの行動原理

この間、寝る前に、人がやる気が出る時ってどんな時だろうとボーッと考えていたんです。

それで、これはだいたい5つの行動原理に分けられるんじゃないかなぁという結論になりました。

 

 

それは、欲(よく)、得(とく)、徳(とく)、楽(らく)、避苦(ひく)の5つです。

・・・ええ、とても語呂を重視しております(笑)

 

 

1つ目の欲(よく)は、食欲・性欲・睡眠欲などの生物としての原始的な欲求になります。ええ、やっぱり逆らえませんよね・・・。

 

2つ目の得(とく)は、お金や物など利益を出したいという気持ちです。ええ、これもなかなか逆らえません。。。

 

3つ目の徳(とく)は、善いことをしたい、人のためになりたいという気持ちです。他人から認められたい名誉の気持ちもここに含まれます。なんだかんだでみんな優しいので、多くの方がこの行動原理にも従ってると思います。

 

4つ目の楽(らく)は、楽しく面白いことをしたいという気持ちです。何気ない雑談とか行楽や趣味などはこの原理に入ると思います。

 

5つ目の避苦(ひく)は、これも原始的な欲求とも言えますが、苦痛を避けようという気持ちのことです。純粋な肉体的な痛みだけでなく、恐怖や不安などの心理的な不安も含まれます。痛いのはやっぱり嫌ですからね・・・。

 

 

自分や他の人の様々な行動を見て、どの原理に基づいているかなぁと考えると面白いんです。

 

例えば、基本的には仕事は「得」のための行動で、趣味は「楽」のための行動ですね。

ただ、仕事には多くの場合善いことをしたいという「徳」の要素もありますし、趣味が趣味にとどまらず「欲」や「得」も兼ねたものの方も居るでしょう。だからこれらは5つには分けられてはいますが、完全に分かれているものでなく、それぞれが様々な割合で混ざりあいながら私たちの行動を支配していると考えられます。

 

 ◆

 

この行動原理の割合は人類の歩みとともに変わってきました。

原始時代は食糧もなく危険な時代でしたから、人々の行動原理はほとんど「欲」と「避苦」であったでしょう(だから、先ほど「原始的な欲求」などとも書きました)。

しかし、今は文明が発達したおかげで食糧も豊富で安全です。ですから昔より「欲」と「避苦」の割合は減って、代わりに「得」や「徳」や「楽」が私たちを動かすこともが多くなっているのです。

これは人々が「欲」と「避苦」の行動原理から、課題を着実に乗り越え継承した成果です。私たちのご先祖様方が、がんばって食糧に困らず安全に安心して暮らせる社会をコツコツと築き上げたのです。人類の「欲」と「避苦」の行動は着実に効果をあげてきたと言えるでしょう。(なお、私はきっとこれからの時代は「得」の要素も弱まって、「徳」や「楽」が更に伸びてくるのではと思っています。)

 

 

さて、こうして文明が発達して行動原理が変わってきたと言っても、これは人類の歴史から見ればごく最近のことです。だから、文明が進歩はしても、人類の進化はしておらず、私たちの生物としての身体や心は原始時代とさほど変わっていないはずです。

 

例えば、現代に生まれた赤ん坊をそのまま現代で育てれば「徳」や「楽」などの行動原理を多く抱いたはずですが、生まれてすぐにタイムマシンで原始時代に送り込んだら、時代の波にもまれて「欲」と「避苦」の行動原理で動く人間になるはずです。

 

つまり、どんな行動原理を持った人間になるかは、生まれた後の要素が強いということです。

 

だから、大事なのが教育なんです。

 

 ◆

 

教育は、その社会の行動原理の割合を子どもたちに覚えさせるものと言えます。

どの原理に対しても偏りなく可能性を開いている子どもたちに、その社会でどの原理が重視されて、どの原理が重視されてないかを学ばせるのです。

大人になってからでも割合を動かすことはできますが、それは重くて少ししか動かせません。最も割合を柔軟に決められるこの子供時代の教育・経験がその子の生涯において割合の大きな部分を決めてしまいます。

だから、どのように教育するかが一番大事なのです。

 

 

さて、みなさんもご存知と思いますが、体罰で生徒が自殺したという事件があり、今、議論になっています。

 

議論の中で、体罰に賛成の方も居るようですが、私は反対です。

 

体罰は子どもに適宜苦痛を与えることで「また罰を受けたくないからがんばる」という気持ちを抱かせて努力をさせるやり方です。

これは、まさに「避苦」の行動原理です。

こんなことをしていては、その子どもたちの中で「避苦」の行動原理ばかりが増えてしまいます。そうすれば、その分「徳」や「楽」などの割合は失われていくのです。

 

「避苦」が高く、「徳」や「楽」が少ないまま育った子どもは、大人になってもまたその子どもに「避苦」の原理しか教えることができません。

つまり、また将来も「苦痛を与えることで教育する」ことを繰り返すのです。

これは社会全体としても「避苦」の行動原理が増えることを意味します。誰かが「苦痛を与える」ことを繰り返す社会になることを意味します。

 

 

せっかくご先祖様方ががんばって食糧を確保し、安全な街や住まいを作り「欲」や「避苦」に割く労力が減ってきたのに。

みんなで善く、楽しく生きようとすることに専念できるそんな社会が近づいてきているのに。

わざわざ過去に後戻りをするような、体罰はそんな教育です。

 

 

後戻りがダメとは言いません。間違った道に進んでしまった時は引き返す勇気も必要です。

ですが、今進もうとしようとしている道、今までの私たちのご先祖様たちが築き上げてきた道、それと比べれば体罰が導く道は、私にはちっとも魅力的に思えないのです。

 

 ◆

 

私たちが子孫を作るときに継承されていく遺伝子はDNAという化学物質であることが知られています。ですが、別に私たちの身体はDNAという化学物質を継承したいわけではありません。あくまで継承しているのは情報です。DNAなんて情報を運ぶのにちょうどいい入れ物だっただけのことです。

 

そして、継承される遺伝子は実はDNAだけではありません。

それが教育という入れ物に入った情報なのです。

化学物質でも、物でさえもないですけれど、これもやっぱり遺伝子なのです

 

 

DNAは簡単にいじれるものではなく、ほとんど手が出せないと言ってもいいでしょう。だから生物学的な遺伝の部分は傍観するしかないところです。

ですが、教育は多くの人が大きくかかわっています。自身の子どもを持っておらず、直接子どもと触れ合う機会が無かったとしても、それでも「この社会がどういう行動原理で動いているか」を子どもたちに提示する一員として、決して無関係ではありえません。

 

 

私たちが「避苦」で動いていれば、その分、子どもたちも「避苦」で動きます。

私たちが「欲」や「得」で動いていれば、その分、子どもたちも「欲」や「得」で動きます。

 

 

彼らは私たちを見ています。私たちの社会で育っていきます。

彼らは私たちの鏡なんです。そして社会の鏡でもあるのです。

子は親に似るといいますが、これは教育を介した遺伝でも同様なのです。

私たちの行動一挙一動が、そのまま教育なのです。

 


私は、みんなが善く生きて、楽しく生きられる社会がいいなと思います。

だから、私自身も「徳」と「楽」で生きようと思うんです。

 

そして、だから、体罰は嫌なんです。

 

 

 

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P.S.

とはいっても、「欲」とかやっぱり怖いです。

美味しいケーキ食べたいなぁ(/ω\)