「価格」という名の幻
いつもお世話になっているid:keisuke9498さんから「コンビニの安くてそれなりに美味しいスイーツや有名パティシエの高級スイーツばかりよく売れて、町のケーキ屋さんが生き残れない未来が来てしまいそう」という主旨のコメントをいただきまして。
確かにそうなんですよね。
スイーツに限らず、最近は、商品の二極化を感じることが多くなりました。コンビニや100円ショップに代表される全国展開で画一化され安価かつ質もそこそこ良い商品か、そこに行かなきゃ手に入らない、並んででも欲しいぐらいの超有名人気店の高級商品、この2択ばかりになっている印象です。
また、個人商店や地域の商店街などが、潰れるか大手に吸収されるかで、存亡の危機にあることはよく知られています。これはこの二極化現象の裏返しと言えるでしょう。
存亡の危機にあるといっても、決して質が悪いわけでもないのです。例えば地元のお店のケーキもやっぱり専門家だけあって美味しいです。言ってみれば、中間の価格で中間の質というところでコンビ二や高級店のちょうど狭間に立っているという感じです。
それならそれで他と差別化されているので、理屈の上では勝負になりそうにも聞こえます。でも、これだと売れないのです。コストパフォーマンス的にそこそこ良くても、ダメなのです。
どうしてこんなことになってしまうのでしょうか。
それは「価格」という名の幻に私たちが惑わされてるからだと思うのです。
*「価格」って何?
――「価格」って何?
と、聞かれたら、みなさんは何をイメージされますか?
まず、頭に浮かぶのはきっとスーパーなんかでの商品の値札だと思います。
お店が「このペットボトルは100円です」と示しているアレですね。
これも確かに価格の1つなんですが、実は「価格」の種類はこれだけではありません。
例えばコレです。
――今、1ドル何円でしょうか?
この瞬間、私が見た時は、87.52円でした。
ですが、皆さんがこの文章を読まれる時にはきっと数字が違っていることと思います。
変動が激しいところからも見て、明らかにスーパーの値札とは性格が違いますね。これは「相場」と呼ばれる種類の「価格」になります。
さて、あと「価格」はもう一種類あるのですが、いかがでしょうか。思いつくでしょうか?
実はこのもう一つの価格こそが、一番大事なのに、一番忘れられがちな「価格」なんです。
そして、これを忘れてしまうと、それだけで、私たちは社会に思いもよらない事態を招いてしまうのです。
その大事な3番目の「価格」、それは――「自分の中での価格」です。
*3種類の価格
「自分の中での価格」の本質を理解するために、他の「価格」から順にその意味を見て行きましょう。
まず、スーパーなどの値札で表されている「価格」。これが意味することは何でしょうか。
これは「売り手の希望価格」です。
ペットボトルに100円と書いてあれば、お店は100円以上で売ることを希望しているという意味ですね。
この価格の特徴は売り手が数字を自由に決められるということです。店長の気さえ向けばペットボトル1個10000円という値札にしてもいいわけです(普通はしませんけどね!)。
では、円ドル相場に代表される「相場」という「価格」はどうでしょう。
これは「過去に売買が成立した価格」です。「売買価格の履歴」と言ってもいいでしょう。
当然ですが、売買は売り手と買い手の条件が合意に至らないと成立しません。具体的には、売り手がこれ以上なら売ってもいいよという値段と、買い手がこれ以下なら買ってもいいよという値段が合わないといけません。
それがうまいこと成立した値段の記録が「相場」です。
円ドル相場のように「最新履歴」が表示されるものもあれば、「白菜の値段はだいたいこれぐらいのことが多かった」のように「過去の相場のだいたいの平均値」として示されることもあります。少し性格は違いますが、いずれも「過去の履歴」であることには変わりありません。
この値段は、双方の合意があって初めて成立するものですから、値札のように「売り手の自由」にはなりませんし、もちろん「買い手の自由」にもなりません。
では、問題の「自分の中での価格」とは何でしょうか。
ここまでの流れで薄々お気づきと思いますが、これは「買い手の希望価格」です。
「いくら以下なら買ってもいいよ」という、この「いくら」の部分。この「価格」です。
これが一番大事で、一番忘れられている「価格」です。
こう言うと、「えー、でも、これ高いなとか、安いなとか気にして買ってるよ、自分の中での価格なんて忘れてないよ」と言われるかもしれません。
でも、果たして本当にそうでしょうか?
*格付けチェックの不思議
「芸能人格付けチェック」という番組があります。このお正月にもやってましたね(今回は私は見てないのですが・・・)。
仕組みとしては、すごーく高級品と、すごーく普通の品をの2つ、どちらがどちらか伏せて挑戦者に提示し、どっちが高級品かを当てさせるというゲームです。
「一流芸能人なら高級品が当てられて当然」ということで、格付けチェックと言われます。
問題も物だけでなく、「どっちがプロの演出か」や、「どっちがプロの演奏か」など、物でないこともあります。
味覚が大事となる料理の問題などもあって、視聴者が全部に正式に挑戦することはできないのですが、「どっちがプロの演奏か」など挑戦できる問題では、家族そろって熱くなります。
「ぜったいこっちだって」「いやいやこっちに決まってる」
その後、その正解発表と同時に明暗が分かれて「やーいやーい」と相成ります(笑)
さて、そんな楽しい番組なんですが、素朴な疑問がわくんです。
参加してる芸能人の多数が不正解。つまり多くの人が「ふつーの物」を選んでしまった時。
番組を見ている自分が「ふつーの物」と思ったものが「高級品」だった時。
特に、こういう時。
みんなが「こっちが良い物」って思ったものが、「良い物」じゃなかったですと言われても、そっちが「良い物」って誰が何の権利があって決めてるの?
その「高級品」こそ「高級」と名乗る資格が無いんじゃないの?
こんな疑問がわきますよね?
そう。
「高級品」は「良いモノ」であるはずなのに、みんなが選ばなかった、つまりみんなが「良いと思わなかった」という矛盾。
そして、それが「良いモノ」でないと思った人たちの判断が、あっさり「不正解」と断じられてしまう違和感。
ええ、この矛盾や違和感こそが、「価格と言う名の幻」という問題の本質なのです。
*高いものは質も良い?
――「高いもの」は「質が高いから値段も高い」
これは一般的に信じられている法則です。
つまり、「質が高い」と「みんなが欲しがる」から需要が供給を上回って、「値段が上がる」、という仕組みを想定しています。
しかし、「みんなが欲しがる」のは「質が高いから」という理由だけではないのは、私たちは知っているはずです。
別に自分は欲しくも何にも無いけれど、「将来値上がりしそうだから」といって買う財テク商品。
例えば金塊です。別に何かに使うわけでも、それが好きなわけでもありません。冷静に見たらタダの重い置物です。でもそれを欲しがるのは、それが「高級品」だからです。それを「みんなが欲しがっているから」です。
また、「ブランド商品」。
いくら「やっぱり質も良いね」と口では言っていても、もしも「じゃあ本当に質を吟味した?」と聞かれたら、本当は自信が無い。下手をしたら名前ほしさにニセモノつかまされちゃったりもしたり。
このように、「質」というより実は「ブランド名」が欲しかったということ――これは誰しも経験があることだと思います。それを欲しくなったのは、そう、それが「高級品」だったからです。それを「みんなが欲しがっていたから」です。
つまり、どちらも「質が高いから」ではなくて、「みんなが欲しがるから」「高級品だから」という理由で「欲しくなる」のです。
確かに最初は質が高かったのかもしれません。それで高値でも売れたのかもしれません。
でも、途中から「高いから高くなる」そんなループが生まれるのです。
これこそバブルの原動力にもなった恐ろしい力です。
この力があるために、とんでもない発想も生まれます。
――質はそこそこでいいから、高級品に見せかけよう
さすがに安物とバレない程度に質は保ちつつ、余力は「高級品に見せかけるイメージ戦略」に注ぎ込む。その上で、本当は質に対して分不相応な高い値段を提示する。これは儲けるためでもありますが、それ自体が「イメージ戦略」にもなります。
結果として、質に対して非常に高いけれど「高級品」となるブランドが登場します。
もちろん、こんなブランドばかりではないと思いますが、正直言って少なくもないでしょう。当の本人たちは当然否定するでしょうけれど。
*高級品であるということ
ある物が「高級品である」と言った時、その意味は何でしょう。
それは、「値札」と「相場」が高いという意味です。
「値札」は売り手が自由に決められます。
ですが、私のような素人が今手作りケーキを焼いて「高値」をつけても、決して「高級品」と呼ばれないように、「高級品」となるには過去に「高値で売れた実績」、「相場」が必要です。これをいかにクリアするかが、「高級品」となるための最大のハードルではありますが、実際に質を高めるか、あるいは上で書いたような「イメージ戦略」で乗り越えれば、晴れて高級品となれるのです。
そして、ここで重要なことは「高級品」であるためには「値札」と「相場」が必要ということの裏側、つまり「自分の中での価格」は不要という事実です。
当たり前と言えば当たり前です。
自分が預りしらない「高級品」は山ほど世の中にあるでしょうから、「自分の中での価格」が必要なはずはありません。
しかし、「自分の中での価格」が「高級品」であることに関係ないのであれば、たとえ世の中的には「高級品」であっても、別に「自分の中の価格」を低くしても良いということになります。
ここで「格付けチェック」の疑問につながります。
「自分の中での価格」は「高級品」であるかどうかに関係ないのですから、芸能人たちや私たちが「自分の中の価格」で「高級品」を低い値段と思っても当然良いのです。
問題は「自分の中の価格」と「高級品かどうか」が一致しなかった時に「不正解」となってしまうことです。
つまり、「あなたの価値観」が、「他人の価値観」と一致しなかったら低評価となってしまうということです。
これは「他人の価値観」に「あなたの価値観」を合わせろと言っているに等しいことです。
番組としては楽しいと思います。
あくまで、そういうゲームとして楽しむのであればいいのです。
ですが、この番組の裏にこのようにさりげなく含まれているように、「高級品」を当てられないと人間として劣等という感覚、これは案外私たちに染み込んでいるのではないでしょうか。世の中に蔓延しているのではないでしょうか?
そして、これほど恐ろしいことは無いのです。
*「自分の中の価格」の消滅
元来、価格というのは「買い手の希望価格」と「売り手の希望価格」を照らしあわせて決まるものでした。そして「相場」の情報は、今ほど早く広く知られるものではありませんでした。
ですが、現代はどうでしょう。
物を買う度に交渉していては面倒なので、スーパーの値札のように売り手だけが価格を提示するようになりました。その値段は多くの店で同じような値段で、多くの人が買っているようなので、「値札」がそのまま「相場」でもあります。
そんな「値札」や「相場」を見ながら、私たちは「その値段で買いたいかどうか」だけ判断するようになりました。
でも、これは「YesかNoか」だけ言ってるようなものですから、「いくらなら買うか」という「買い手としての希望価格」を考える機会が無くなったとも言えます。
私たちはこの状況に慣れすぎたのです。
二者間の交渉行為たる「売買取引」は――ただ一方通行の行為である「買い物」になってしまったのです。
「値札」と「相場」という2種類の値段だけの「買い物」に慣れてしまって、「買い手としての希望価格」つまり「自分の中の価格」の存在を忘れてしまったのです。
「他の人でなく、ただ、あなたがその品をどう感じるか」ということが忘れられていってしまったのです。
「その品をどう感じるか」というのはすなわち「その品質を吟味する」ということです。
そう、売買交渉という面倒や手間を避けたいがために、私たちは品物の質を吟味する機会を失い、その感覚が退化し、そしてその存在をも忘れてしまったのです。
*そして二極だけになった
品物を買うかどうかの基準は本来コストパフォーマンスでした。
「自分の中での品物の価値」が「値札」より上回っているかどうかが決め手でした。
しかし、この「自分の中での品物の価値」を評価できなくなった時どうなるでしょうか。品定めをする感覚が退化するとどうなるでしょうか。
感覚が退化すると「すごく質が悪いもの」か「すごく質が高いもの」か「その他中間」の3パターンぐらいしか区別ができなくなります。(視力が悪くなると、とりあえず明るいか暗いかだけは分かる、というイメージをしていただけるとよいでしょう)
さすがに「すごく質が悪いもの」は避けると思います。
ですが、「すごく質が悪いもの」は少なく、この世の多くのものは「中間」です。
「中間」の中での質の分別が効かないとなると、頼るべきはもう「価格」しかありません。
だから、まず「中間」の中で「最も安いもの」を選びます。「質がすごく悪くない」ことを確認できたら、「安い方がいい」からです。
この戦いで、「中ぐらいの質の中ぐらいの価格」の商品は「最低限の質の安い価格」の商品に勝てません。だって、「中ぐらいの質」も「最低限の質」も同じようなものに感じるので、本当にその「中ぐらいの価格」に見合ったものか分からないからです。
また「広く流通している」商品も強くなります。「広く流通している」ということはきっと「質は担保されているだろう」からです。自分で質が判断できなくても、安心なのです。
そして、「すごく質が良いもの」は選ぶと思います。
高級パティシエの本当に美味しいスイーツはやっぱり分かるので、欲しくなります。それがたとえ高くても、質も良いので買うのです。
この戦いで、「中ぐらいの質の中ぐらいの価格」の商品は「すごく高い質のすごく高い価格」の商品に勝てません。だって、「中ぐらいの質」も「最低限の質」も同じようなものに感じるので、本当にその「中ぐらいの価格」に見合ったものか分からないからです。
ですが、やっぱり「すごく質が良いもの」は少なく、この世の多くのものは「中間」です。
「中間」の中でも一般に「高級品」と言われる商品は強くなります。「高い値段」ということはきっと「質は担保されているだろう」からです。自分で質が判断できなくても、安心なのです。実はそれが「すごく質の高いもの」でなくても、何となく「美味しい気がする」のです。
そして本当は「あんまり美味しくなく」思っても、それは「有名な高級品」で、しかも「みんなが美味しいと言っている」ので、何となく言い出しにくいのです。言ったら言ったで、「味オンチ」のレッテルが用意されていたりします。
こうして、「高い値段」か「安い値段」の二極ばかりが強くなります。
市場は競争原理が働くので、この傾向は更にエスカレートします。
「高い値段」のものは、「高級品であるイメージ」に力を注ぐため、質よりイメージ戦略に労力を使い、またあえて値段も上げてみたりします。結果、更にコストパフォーマンスが悪くなります。
「安い値段」のものは、「更に安くすること」に力を注ぐため、質よりコストカットに労力を注ぎます。質をさげ、どれだけギリギリの価格にするかが勝負です。結果、更にコストパフォーマンスが悪くなります。
みんなが「価格」しか見なくなったせいで、最も大事なはずの、質やコストパフォーマンスは省みられなくなってしまいます。
そして、「価格」で勝負できない、中間層は滅びて、二極だけになるのです。
*「価格」という名の幻
何かの質を評価するという行為は、労力がかかります。訓練や経験も必要です。
日々、実際に品物を手にとったり、使ったりしないと分からないものです。
そんなことより、人の意見に乗っかった方が簡単で楽です。
ですが、みんなが「これは高級品だとされているから価値が高い」とか「安かろう悪かろう」とか、あくまで「他の人が決めた値段」にばかり乗っかって良いのでしょうか。
考えてみて下さい。
みんなが他の人が決めた「値段」に乗っかる状態。
それって、誰が値段を決めてるのでしょうか?
誰も決めてないんです。
だから質に関係なく「高いから高くなったり」、「安いから安くなったり」するんです。船頭を失った船が暴走し始めるのです。「価格」が「価格」を決め始めるのです。
本当は「売り手の希望価格」、「買い手の希望価格」、「相場」の3つが合わさって初めて本当の価格が生まれるはずです。
それでこそ、質に準じた適切な価格が決まるのです。
でも「買い手の希望価格」――つまり自分にとっての品物の「価値」という、「他の人がどう思うか」関係ない要素が失われると、それがおかしくなります。
カメラの3脚が2脚になったら立てないように、「価格」も不安定になって、「価格」でなくなってしまうのです。
それは誰も決めてない、誰も質を見ていない、何にも表していない、「価格」という名の幻なのです。
そんな幻に、人々が右往左往、四苦八苦。
こんな虚しいことがあるでしょうか?
だから、面倒くさくても、その感覚を忘れてしまっていても、「これは自分にとって価値のあるものか」評価すること。これをサボってはいけないんです。
できる限り、日々それを訓練しないといけないんです。
そして、その評価が世間と違っていても、「高級品」を「ふつーの品」と思ったとしても、それでいいんですよ。
「これは私が決める価格で、あんたたちには関係ない」
そう言える、あなたの眼には視力が戻り、もう蜃気楼は見えないはずです。
そして、「中間」の人たちの商品に籠った、人間らしさや味わいも、くっきりと感じ取れるようになっているはず。
そう思います。
そう願います。
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⇧この時はレビューサイトの点数のお話でした。
P.S.
昔から、ウインドーショッピングの時なんか適当な品を選んでは「値札を見ずに値段を考えるゲーム」をよくしてます。
けっこう「自分の思った値段」と「売り値」とは違うんですよー。
でも、それでいいんですよね・・・と。