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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

マニュアル人間、オートマ人間

「この前と対応が違うじゃないか」

 

そういうお怒りの言葉を聞くことがあります。

 

同じような案件でも担当者が違うと対応が違う――そういう時に、お客様方はこう言って、同じ店なのに対応方法がバラつくのがけしからん、と責めてくる、そんなセリフになります。

 

これは確かに私自身がお客様サイドに立った時には、内心「えー、前はもっと親切にしてくれたのに」と思うことはありまして、気持ちは分からなくもありません。もしかすると過去には実際にそのようなクレームを言ってしまったこともあるかもしれません。

 

そんな比較的責められやすい点というところもあってか、お店サイドとしても従業員によって対応方法が異ならないように、対応の統一を図ろうとすることは多いようです。

「こういう時はこうしなさい」「ああいう時はああ言いなさい」などなど。

いわゆるマニュアル化ですね。

お店もマニュアルという一種のフローチャートを作って、対応を統一しようとするのです。

 

ですから、従業員は、客からもお店からも「対応を統一するように」求められている、そのように言えるでしょう。

 

ですが、やっぱり「人に対応を統一することは求めちゃいけない」私はそう思うんです。

 

  ◆

 

料理の本やクックパッドなどを見ると、色んなレシピが載っています。料理のレシピも手順をまとめているという意味で一種のマニュアルと言えるでしょう。

恥ずかしながら、私のような素人はいつもレシピに従って料理を作ります。ほんと、それが絶対のルールかのように、さじ一杯も1gも一分一秒も違わないように恐る恐る手順を踏んで作ります。そうしないと、間違いなく美味しい料理に対面できなくなってしまうので・・・。

 

ただ、当然ですけれど、どのレシピにも最初にそれを作った人がいます。私が絶対のルールにしていたようなレシピも最初は白紙だったはず、何も決まっていなかったはずです。

ですから、作者さんのレシピ作成にあたって、小さじ1杯のところを2杯で試してみたこともあったでしょうし、5分煮込むところを3分煮込むこともあったかもしれません。オーブンや油の温度だって10度ずつ変えて試したかもしれません。

それだけ試行錯誤があったに違いないのです。

 

私たちが見るレシピもあくまで最初はこのように移ろいゆくもので、少なくとも絶対のものではなかったはずです。下手をすると、今でも作者は試行錯誤を続けていて、更にレシピが進化・変化しているかもしれません。

 

冷静に見てみればどう考えても絶対じゃない。

そんなレシピを絶対視してしまっていいのでしょうか。

 

  ◆

 

例えば、どこのご家庭でも経験があると思うのですけれど、最初はテレビや本を参考に作ってみた料理だったはずのものが、あえてこれをかけると美味しいとか、この手順をあえて短くすると美味しいとか、そんなちょっとしたアレンジを加えられて違うレシピに変貌してしまった――そんなご経験はないでしょうか。(もし記憶に無い方も例えばカップヌードル3分待つのを2分半にするとちょっと固めで美味しい――レベルのイメージで良いです)

こういったアレンジこそ、いわゆる家庭の味で、その人たちの個性が反映されたレシピと言えると思うのです。

 

ここで、「レシピが絶対なんだから」とアレンジを禁止してレシピ通りに杓子定規に作るのが本当に正しいでしょうか。

私たちは目玉焼きに何をかけるべきかでさえ一晩議論できるほど好みが違うのにそんなアレンジを禁止することに意味があるのでしょうか。

もともとのレシピを絶対視することに意味があるのでしょうか。

 

アレンジこそ、人の人たるところであって、そこを禁止してしまうのは、もう人であることを禁止するようなものなのです。

 

 ◆

 

そもそもレシピやマニュアルは何のためにあるのかと言いますと、「やったことのない初めての人の基盤」のためです。やったことがないと当然、初手から悩みますから、「とりあえずやってみる」ためにマニュアルは非常に有力な武器になります。

 

ですが、使う側も使われる側も、そして利用する側も、そんなマニュアルをいつまでも守ろうとしていないでしょうか。

「作業に慣れたらマニュアルに従わずに柔軟に対応する」

本来、マニュアルはそういう前提があるはずのものだと思うのです。

 

例えば先程の料理のレシピですが、たとえ同じレシピに従っていても料理の鉄人と私が作るのでは味に歴然とした差ができるはずです。それは「料理」という「作業の成果」は「マニュアル」だけでなく「担当者の個性」にも大きく依存しているからに他なりません。

といっても、「料理の鉄人の個性」を更に抽出して、私でも鉄人のような料理ができるようになるレシピを作ろうとしたとしてうまくいくでしょうか?どんなに良いレシピになったとしても、やっぱりそれは「私」の方が変わらなくてはやはり不可能なことでしょう。だってそれはもはや「鉄人、その人だからこそできること」なのですから。

そしてそのレシピで表せない部分こそが、個性という唯一無二の性質なのです。

 

 ◆

 

つまり、

作業=個性の共通化出来る部分(マニュアル)+個性の共通化出来ない部分(担当者の絶対個性)

という感じです。

 

ここで、マニュアルを絶対視するというのはどういうことかといえば、個性の部分をそぎ落とし、マニュアル部分だけにして固定しまうということです。

 

ですが、考えてみて下さい。

 

「マニュアル」も最初作成した人が居る以上、誰かの「個性」から生まれているのです。また、「マニュアル」は出来上がった後も、良い「担当者の個性」を参考にして、成長しようとします。その「担当者の個性」の中に共通化できるところは無いか探しだそうとします。

 

つまり、「マニュアル」は「個性」が無くては誕生できないですし、そして改善されていくこともなくなってしまうのです。

 

そんな「マニュアル」だけを残し、「個性」を禁じてしまう。

これがどれだけ虚しいことかは、想像には難くないと思います。

 

 ◆

 

マニュアルというのは、先ほどフローチャートと言った通り、

「こういう時はこうしなさい」「ああいう時はああ言いなさい」

と、条件に応じて場合分けをして対応を定めたものです。

 

これは何かに似ていないでしょうか。

 

そう、コンピューターなどのプログラムです。

 

ほんとうにプログラムそっくりで、マニュアル化できる作業というのはそっくりそのままプログラムできる作業とも言うことができます。

 

その昔、工業機械の登場で手工業の産業が衰退したことがありました。それはその作業の重要な部分が、良くも悪くも機械でもできるような共通化できる作業だったからです。

そして、今やコンピューターの登場で肉体労働だけでなく、知的労働も脅かされていると言われます。そこで、当然、脅かされるのはプログラム化できる作業の部分になります。

 

マニュアル化できる作業というのは機械でもできる仕事、いえ、もはや機械の仕事なのです。

所詮、オートメーション化できる作業なのです。

 

 ◆

 

伝統工芸など、昔から残る手工業は何故残っているかというと、その人が作る器や絵文字などに「味わい」があるからです。それが唯一無二の「個性」を放っているからです。

 

そして、マニュアルを絶対視すること――マニュアル化することはすなわちそんな「個性」の価値を捨てることに他なりません。

私たち自身で、私たちを機械のように思い、機械のように扱い、機械のように動く、そのようなことなのです。

そして、そんなことをしているうちに、本当に機械化できる作業ばかりになって、機械にそっくりそのまま乗っ取られてしまう可能性もあるのです。

 

私はそういう未来は嫌なんですよ。

 

 ◆

 

人によって相手によって対応が違ってもいいんですよ。人なんですから。

日によって出来が違ってもいいんですよ。人なんですから。

 

そんなブレこそが「個性」ですし、「人の温もり」なんだと思うんです。

 

 

もし、対応が違っても「対応を統一すること」を求めてはいけません。

「前の人の対応が好き」だったら、ただそう言えばいいのです。

「もっと良い対応を考えてみて」そう言えばいいのです。

そうすれば今回の担当者の「個性」も変わるかもしれません。でも変わらないかもしれません。変わるとしても「前の担当者と同じ対応」でないかもしれません。

そして、それでいいのです。

 

でも、「前の人のようにやれ」「マニュアル通りにやれ」と言ってしまうこと、これは違うんです。

 

 

「対応が違ってもいい」を前提にしているか、「対応が違っちゃだめ」を前提にしているか、そこは似て非なるものなのです。

 

多様性を認めるか否か。

 

ここが私たちが人であるか、機械であるかの、大きな分かれ目なのです。

 

 

 

 

 

P.S.

「manual」という単語は「manu」で手動っぽい響きなのに、本質的には「automatic」的で自動っぽい意味なのが不思議です。

ググってみると、「manual」の「manu」は「手元に置く本」の「手元」部分から来てるみたいで、「手動」とも語源が違うんですねー。なるほどー。

面白かったのでそんな題名にしてみました♪

 

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