幸せは歩いてこない
あなたはいま幸せですか?
ご無沙汰してます。
いえ、宗教の勧誘とかではありません。。。
最近ちょっと色々と落ち込んでいまして、「幸せ」について日々思いを巡らせるという、ちょっといただけない症状に陥っているんです(良い子は真似をしてはいけません)。
↓だいたいこんな感じです。
幸せになりたくって、幸せになろうとしたけど、幸せになれない。
なんで?
どうして?
でも、そもそも幸せって何?
どうなったら幸せって言えるの?
・・・そう、「幸せ」って何となく目指しているけど、それが何なのかって確かによくわかんないんですよ。
美味しい物を食べたりとか、好きな人や家族と一緒に過ごしたりとか、仕事が上手くいったりだとか、ざっと見渡しても色々な「幸せ」があるようなのですけれど、多分これだけじゃ説明が付かないんです。
例えば私が今「失恋して不幸なんです」と呟いたとしても「食べて寝られるところがあるだけ幸せだろ」なんて思う人がいるでしょう。
逆に私が今「食べて寝られるところがあるので幸せです」と呟いたとしても「その程度で幸せなの?」って思う恵まれた人もいるでしょう。
「好き嫌い」が個人個人で違って多彩なのと同じように、人によって「幸せ」を感じるポイントが違う、とも言えますけれど、さらに突っ込めば、人によって「幸せ」を感じるレベルが違う、と言えるかもしれません。
◆
「幸せ」には、大きく2つのタイプがあると思います。
ひとつは、「日常の幸せ」、
もうひとつは、「獲得の幸せ」です。
「日常の幸せ」は文字通り日常にある幸せのことです。
食べて寝られるところがあるとか、家族と楽しく生活しているとか、恵まれた職場に勤めているとか、収入が安定しているとか。
安定した衣食住などに代表される、「既に所有してる幸せ」です。
「獲得の幸せ」も文字通りです。
高級料理を食べる、恋人ができる、出世する、金メダルを取る、などなど。
今まで持っていなかったものを獲得する「所有する幸せ」です。
この2つは似ているようで違います。
仮に幸せ度を反映する幸せポイントという数字があったとします。
「日常の幸せ」は幸せ100ポイントをずっと毎日保てているという幸せです。
「獲得の幸せ」は幸せ100ポイント持っていたのがある時200ポイントになって、その100ポイントが増えたことに対する幸せです。
「日常の幸せ」は水準で、「獲得の幸せ」は差分です。
「日常の幸せ」は安定感で、「獲得の幸せ」は上昇感と言ってもいいでしょう。
「それが違ったから何なの?」と思われるかもしれません。
ですが、私には、この2つのタイプの「幸せ」の性格の違いこそが、私たちの「幸せライフ」をかき乱しているように思えるのです。
◆
「日常の幸せ」は慣れがきます。
毎日好きなものを食べて飲んで、空調が効いた快適な部屋で過ごしていると、ついつい私たちはそれを「幸せ」というより、「当たり前」に感じてしまいます。
家族や恋人を嫌いになったわけではないのに、ないがしろにしてしまった・・・これも誰しもが経験があることではないでしょうか。
「日常の幸せ」は確かに「幸せ」としてそこにあるのですけれど、慣れとともにその「幸福感」が感じ取りにくくなっていく、そういう特徴があるようです。
また、「日常の幸せ」に対して「幸福感」が感じ取りにくくなる一方で「執着心」が強くなっていきます。
これは「失うことを極端に嫌がる心」といったところでしょうか。
携帯電話がなかったり、コンビニエンスストアがなかったり、エアコンがなかったり、清潔なトイレがなかったり、日本で生まれ育っているとそんな生活をもはや想像するのは難しくなっています。
そんな中、明日からどこかの発展途上国に行って、これらと無縁な生活をしろと言われたら、やはりいくらかの抵抗感が沸いてしまうことは否めません。
一度、「当たり前」になってしまった「幸せ」を失うのは非常に辛いものなのです。
たとえそれに「幸福感」をあまり抱かなくなってしまっていたとしてもです。
◆
「獲得の幸せ」はエスカレートします。
最初は少しの「獲得の幸せ」で「幸福感」を感じていたものが、幸福の水準が上がるにつれて、もっと大きな「獲得」でないと満足できなくなってしまいます。
例えば、自分のお金がほとんどない子供の頃はお小遣いに100円もらえただけでも大変にうれしいものですが、億万長者の人からすれば100円なんてきっと誤差の範囲です。でも、そんな億万長者の人たちも決してお金が要らないというわけではなく、むしろ更にお金持ちになるために億や万の単位での利益には一喜一憂していたりします。
100円獲得したら、次は1000円欲しくなって、さらにその次と、「獲得の幸せ」に対する欲望がどんどんエスカレートしていっているのでしょう。
「幸せ」を貯めてしまえば貯めてしまうほど、幸福感を得るためには、もっと大きな「獲得」が必要になってしまうんです。
ですが、現実というのは残念ながら厳しいものでありまして。
エスカレートする「獲得」の要求はあまりにもキリがありません。
努力して努力して、その「獲得」を着実に実現していっても、ほとんどの場合、いつしか限界を迎え応えることができなくなります。
オリンピックでも金メダルは1つだけ。その陰にはそれを目指した多くの人の挫折が隠れていることを私たちは知っています。
そう、「獲得の幸せ」には限界が来るんです。
ある「獲得の幸せ」で、自分の中での限界にまで到達してしまった場合、もっと「獲得の幸せ」を得るためには別の種類の「獲得の幸せ」を得るしかなくなってしまうんです。
◆
さて、これまで見てきた、この「日常の幸せ」と「獲得の幸せ」。
これらのコンビネーションの中に不幸への落とし穴があります。
スタート時点(生まれた時にしましょうか?)、どれぐらいの幸せポイントを持っているかは人それぞれでしょうけれど、ともかく最初は「獲得の幸せ」がとても楽しい時代です。
何をやっても初めての「獲物」なので、「幸福感」が高いのです。
楽しくて楽しくて仕方がありません。
そうして、あれこれ「獲得」に励んでいると自然に所有している幸せポイントが増えていきます。つまり「日常の幸せ」の水準が上がっていきます。
「日常の幸せ」もそこそこレベルアップして、「獲得の幸せ」もどんどん得られている時期は本当に幸せです。黄金期と言ってもいいでしょう。
しかし、ある時「獲得の幸せ」が打ち止めになる日がやってきます。
自分の「日常の幸せ」の水準からすると、もっと大きく「獲得」しなければ幸福感が得られないのに、自分の実力の限界から、それ以上大きな「獲得」が不可能になってしまったのです。
「獲得の幸せ」が枯れてしまったので、とりあえず「日常の幸せ」を味わうことでしのぎます。
ただ、その「日常の幸せ」はずっと持っているだけではどんどん味が薄くなっていく代物です。だんだんそこから得られる幸福感も乏しくなっていきます。
ああ・・・、何かいいことないかなぁ?
――なんて呟いてしまう瞬間、ここが運命の分かれ道です。
よく見てみて下さい、実は本当は限界じゃないんです。
まだ「日常の幸せ」を保ちながらの片手間のままで、「獲得の幸せ」が得られないなんて嘆いているんです。
「日常の幸せ」を保つのにも労力が要ります。その分の力を「獲得」に回せば更に大きな「獲得」ができるかもしれません。
だから、まだ手はあるんです。
さあ、どうしますか?
「日常の幸せ」を削って、新たな「獲得の幸せ」に挑戦するか
「獲得の幸せ」を諦めて、ただただ「日常の幸せ」にしがみつくか
・・・分かります。
私だってそうです。
本当は「獲得」の夢を追いかけたい。
でも。
でも・・・。
やっぱり、私たちは失うのは怖いんです。
「日常の幸せ」を削るのは、ほんとうに難しくって。
だって、一度失ったら、もう同じレベルまで戻ってこられるなんて保証は無いんですもん。
上をもう望まないから、このレベルだけは保って欲しい、そう思ってしまうんです。
こうして、私たちは時々「獲得の幸せ」を夢見ては、ハッと我に返って「日常の幸せ」を保つ作業に戻ります。
延々と延々と続くその作業、正直言って楽しくないけれど。
幸せですかと聞かれて、幸せですなんてとても言えないけれど。。。
◆
これが不幸の落とし穴です。
自分が幸せでないって思っていても「日常の幸せ」を失いたくない恐怖から、その「日常の幸せ」からも「獲得の幸せ」からも幸福感が得にくい環境に居座ってしまうんです。
実際、心理学的にも人間は「得ること」よりも「失わないこと」を重視しやすいという研究結果があるそうです。
ついつい守りに入ってしまうのは本能的なものなのでしょう。
でも、やっぱりこれじゃ嫌なんです。
私たちは幸せになりたいんです。
方法はもう分かってるんです。
あと必要なのは「日常の幸せ」を失う勇気です。
何も「日常の幸せ」を全て失うことはありません。
少しずつでもいいんです。
何故かすっごくしがみついてたけど、本当はそこまで重要じゃないものはいっぱいあるはずです。
「獲得の幸せ」の挫折は「日常の幸せ」を断捨離するいい機会です。
贅肉は必要なだけで十分でしょ?
それに、もし幸せポイントが一時的に減ってしまったとして、その身軽になった分また「獲得の幸せ」による幸福感が復活するんです。
今まで見過ごしてきたような小さな幸せがまた見えてくるんです。
そして十分それで幸せな気分になれるはずなんです。
だから、挑戦するんです。
勝負にでるんです。
何かいいことないかな、なんて嘆いているうちはいいことなんて来ないんです。
傷ついてもいいから自分が進むしかありません。
幸せは歩いてこない。
だから歩いていくんです。
3歩進んで2歩下がろう。
そう、ずっと私たちは歌ってきたじゃないですか。
だから私も
今回は進むために転んだんだって
そう思うことにしたんです。
辛いけど、ほら、なんか幸せな気もします。
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