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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

みんなのトイレの神様

 

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以前、甥っ子、姪っ子のトイレトレーニングを見ていたことがありまして。

 

時には「そんなんじゃパンツマンになれないぞ~」と脅しすかし、時には「よくできました~」とご褒美にシールを貼っておだてなだめて、おおわらわです。

だんだん上手くできるようになっても本当の1人っきりは怖いのか、私がドアをきっちり閉めてしまうと、「閉めないで!!」とそれはもう必死の形相でお怒りあそばせます。

「ごめんごめん」と不注意を謝りながらも、そんな姿がとっても微笑ましくて、次もちょっと閉めちゃおうかな~、なんて、元悪ガキの私はどうしてもイタズラ心がウズウズしてしまいます。

そんな彼らも、いつの間にかはほんとに1人で用を足せるようになって、このトレーニングの騒がしい風景もいつしか懐かしい思い出になってしまうのでしょうけれど。

 

 

              ◆

 

 

さて、トイレトレーニングでは、子どもたちに「正しいトイレの使い方」を指導することになるわけですけれど、よくよく考えると「正しいトイレの使い方」って微妙な存在です。

 

全然覚えてないですけれど、私たちも幼少期にはきっとトイレトレーニングを経て「正しいトイレの使い方」を指導されたことでしょう。でも、それもそんなに長期間じゃないですし、すぐに卒業した後はずっと1人で用を足すようになります。話が話ですから、一度できるようになってしまえば、特に家族や友人でその方法論を語り合うこともなく、見せ合うこともなく、ただただ時々1人きりで用を足して生きていくわけです。

こんなに日常的な行為なのに、こんなにも孤独な領域のままである行為って他にないのではないでしょうか?

そう、幼少期に覚える時以外は、全く他人と交流することがない、トイレってものすっごく「個人的な生涯行事」なんですよね。

ということは、他の人と作法が違っても全然気づきようがないので、それぞれの個人の中でそんなちょっとした違いが勝手に熟成していく可能性があるんじゃないでしょうか。たとえばそれはまるで各地方で独特の方言や風習が発達するように――。

 

 

 ある人はトイレットペーパーの取り方も違うかもしれません。

 他のある人は拭き方も違うかもしれません。

 隣のあの人は用を足す前に神様にお祈りを捧げているかもしれません。

 

 

・・・いえ、私はトイレの前に神様にお祈りを捧げていない罰当たり者です。

 

でもほんとに、みんなには、祈りを捧げるべきそれぞれのトイレの神様が居るのかもしれないのです。

 

 

              ◆

 

 

えーと、何も今回は皆さんに「というわけで、みんなのトイレの作法教えてください!」と持っていくような話ではありません(笑)

ほんと教えなくていいです、ほんとにっ!

 

 

ただ、私が思ったのは、

 

 すっごく自分にとって当たり前のことも、

 すぐ隣りの人にさえ当たり前じゃない可能性はあるよね

 

ってことなんです。

 

「当たり前のこと」って、「当たり前」だから、案外意見とかも交わさなかったりするんです。

自分にとっての当たり前をついつい他の人にも「きっと分かってくれる」って、勝手に期待してしまう。

それで、思ったように動いてくれなかった時に、勝手に不満を持ったり、怒ってしまったり、それで仲違いにまでなってしまったり。

味噌汁の好みの具とか、カレーの好きな辛さとか、目玉焼きにいつも何をかけるかなんかの、日常的なことさえ、誰しもちょっとずつ違うものだって、みんなほんとは分かってるはず。

それなのに、自分が勝手に期待した行動を取ってくれなかったからって、すぐその人に失望するのは、すっごく傲慢な態度なんじゃないかなって、そう思うんです。

 

そんな「期待しすぎ」はかえって身近な人ほどあるんです。

だって外人さんに「自分たちと違う」行動を取られても、みんな意外と怒らないでしょう?「外人さんは文化が違うからしょうがない」ってそう思うでしょう?

でも、隣のあの人でさえ、ほんとうはちょっとずつ「文化」は違うんです。

絶対自分と同じってことはないんです。

それを勝手に怒っても、相手にとっては何が何やら分からないんです。

ちょっと冷静になって、「あ、もしかして何か考え方が違うのかも?」と気づくこと、これが大事なんだと思うんです。

期待が外れた時こそ、私たちはちゃんと話し合わないといけないんです。

コミュニケーションを取らないといけないんです。

そうやってお互いの「文化」を知らないといけないんです。

意見が違う時は、それぞれの「文化」、つまりは「本当のお互いのこと」を知るいいチャンスなんです。

ただ、それぞれの「当たり前」でお互いを判断しあうのはもったいない、そう思いませんか?

 

 

自分のトイレの神様は、すっごくべっぴんさんかもしれないけれど、

隣のあの人のトイレの神様も、きっとその人にとってはすっごくべっぴんさんなんです。

どんな女神さまかも知らずに、バカにするのはちょっと失礼ですよね?

それより、せっかくですしちょっと顔を拝ませてもらう方が面白くないですか?

それに、トイレの神様たちをいがみ合わせるよりは、色んな神様がいてみんなで仲良く共存している社会の方が、多分楽しいんじゃないかな。

 

そう、私は思うんです。

 

 

               ◆

 

 

・・・さてと。

とりあえず、自分の「トイレ」をピカピカにしよう、そうしよう♪

 

いつか見せなきゃいけないかもしれない、その時に備えて。

 

 

 

 

 

 

 

P.S.

テーマの元ネタは皆さんご存知のヒット曲「トイレの神様」でございます~。

ほんとに「トイレの作法」、募集してないですからね?(笑)

 

トイレの神様
トイレの神様

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