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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

すべてがfになる (facebook的な意味で)

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「えーっ!そうなん!?今初めて知ったよ~~。。。」

 

 

もともと耳が早い方ではなかったですが、最近特にみんなの近況情報を得るのが遅くなりがちになってきました。

いえ、私の情報が遅くなったというよりは、他の人達が早くなったと言うべきでしょう。

それは、みんなfacebookで情報交換しているからなんです。

近況に変化があれば、みんな取り急ぎfacebookに報告して、他のみんなもいち早くそれをチェックするので、非常に各自の近況変化に敏感になっているのです。

私はfacebookをやっておらず、週末に友人とご飯食べながら雑談している時にそういう情報を交換するような昔ながらの方法しかないので、ほぼリアルタイムに近況を収集している友人達に情報を先を越されてしまうんです。

 

なので、

「雪見もfacebookしないのー?」

ってよく聞かれちゃうんですけれど、それでも私は何だかfacebookには抵抗があるんですよね。。。

 

 

叔父さんと上司がお近づきに

facebookの最大の特徴はその実名制です。

mixitwitterなど他のSNSやコミュニケーションツールがハンドルネームを使った匿名化を容認しているのに対照的です。

実名制のおかげで、相手への一定の信頼が確保できますし、旧友や同級生、仕事相手などと繋がり易く、コミュニケーションの輪が広がりやすいメリットがあるようです。

自分の現実での信頼や交友関係をオンライン化したようなものでしょうか。

実際facebookをやっている友人の「友達リスト」には、現実に友達の人々だけでなく、仕事の上司や、叔父さん従兄弟などの親戚など、友人にとって様々なタイプの交友関係にあたる人達が登録されていました。

公開設定にもよるようですが、一般には「友達の友達」をたどることもできるので、叔父さんと上司がお近づきになってしまうなどという、今までからでは考えられないようなことも起き得るのがすごいところです。

そして、こんな現実の交友関係の鏡とも言えるfacebookですから、その立ち回りには繊細さが要求されます。

 

 

全員用の自分

友達と話すときの自分、恋人と話す時の自分、仕事中の自分、家族や親戚と話すときの自分。

それぞれやっぱり違うなと思うのは私だけではないでしょう。

みんな、普段は色んな顔を使い分けて生きています。

恋人と話す時用の自分を親に見られたら大変気恥ずかしいですし、友達と話すときの自分を上司に見られたら大変なことになるでしょう。

今まではその使い分けが簡単だったのですが、facebookでは先ほどのようにそのどの交友関係も自分という交点のもとに1つに集まってしまっています。ここでの行動は友達にも見られますし、恋人にも見られますし、上司にも見られますし、親にも叔父さんにも従兄弟にも見られます。

ある人なんかは仕事中に担当のお客さんに「facebookやってるんですね。この前、見ましたよ」なんて言われて大変驚いたようです。「あんなに色々はっちゃけたこと書いてたけど、大丈夫かな・・・」と怯えていました。

 

どの人に見られても大丈夫なことなんて書けるでしょうか?

私には自信が無いです。

せいぜいが結婚式やらの冠婚葬祭のスピーチのような、非常に無難な文句を述べることしかできないでしょう。

実際、私の友人も「確かに無難なことしか書けないのよね・・・」と嘆いていました。

自分の本音を抑えて建前だけ述べる世界で行われる交流、それはほんとにコミュニケーションと言えるのでしょうか?

 

 

常に録音される会話

書き込みには公開範囲というのが設定できるようなので、それを使いこなせば友人モードと親戚モードの混線などはとりあえずは避けられるかもしれません。

しかし、それでも問題があります。

オンラインの書き込みというのは基本的には全て半永久的に記録されます。記録されているからこそ、昼の書き込みを夜に誰かが読むことができますし、数日後、数週間後にも振り返ってみることができます。

なので、例えば友人モードの時の発言も、つまりはずっと残ってしまいます。それはある友人がひょいと悪い気を起こして、ちょっとコピペしただけで、いくらでも全世界に公開することができてしまうことを意味します。そのセキュリティは非常に脆弱です。

それは常に録音される会話のようなものと言えます。

私たちが普段友人たちとあれこれ仕事を愚痴ったり、上司の文句を言ったりできるのも、それがその時その場限りの会話であるからで、もしそこに堂々とICレコーダーが置いてあったとしたら、たとえそれに「絶対誰にも公開しないよ♪」と注意書きがあったとしても、誰も本気で愚痴を言うことはないでしょう。

実名付きでオンラインで何かを書くということは、結局それがもしかすると公開されてしまうかもしれない可能性を考えないといけません。

そしてそれなら結局、「全員用の自分」として、無難なことを書くしか無いのです。

 

 

他人の行動は止められない

上で友人がちょっとコピペしただけで、秘密の話もあっさり公開されてしまうという話をしましたが、もし自分がすごく注意していたとしても、そんな友人の行為によって困ったことになる場合もありえます。

例えば、飲み会の話や遊びに行った写真など自分ではあえてアップしなかったものがあったとしても、その時の友人があっさりそれをアップしつつ「全公開」にしてしまっていれば、みんながそれを見ることができてしまいます。

mixiなどでお互いハンドルネームで交流しあっていれば、それでもどこの誰か分かりにくいので被害は少ないのですが、facebookでは間違いなくあなたしかいません。

自分では嫌だなと思っていても、他人がそれをしてしまえるし、それを止めることもできないのです。

これは、実際にトラブルになる要因を秘めているようで、トレンドマイクロのwebアンケート結果でも

facebookでコメントや写真を投稿する際に注意している点として、「友人・知人が写った写真を投稿する前に必ず確認する」は24.1%にとどまった 一方で、90.6%が「自分の情報や写真を勝手にfacebookで公開される」ことに「不快である」と回答しており、自分が情報を投稿する場合と、他者 に自分の情報が投稿される場合で、意識の違いが見られました。

と、それが心配されています。

 

 

すべてがfになる

こんな感じで、実名制に伴うアレコレがちょっと不安なので、私はfacebookをやっていません。

何でもそうですが、やりたい人がやったらいいし、やりたくない人はやらなければいいと思うんです。

ただ、最近はちょっと流れがいやーな方向に進んできているようなのです。

 

多くの企業が就職活動でfacebookを活用するようになり、場合によってはfacebookへの登録が義務化されているそうです。

これは人が人を見るときに、facebookを評価の場の一つとみなしているということと思います。確かに企業など人を選ぶ側からすれば、その人の交友関係の集大成、つまりその人の人生の縮図とも言えるfacebookは便利なツールかもしれません。どんな人柄でどんな活動をしてきたのか、そして「コミュニケーション能力」があるのかどうかなど、様々なものが「分かる」ということでしょう。

このfacebook活用増加の傾向からは、そんなfacebookを公開しないような人は「何か過去にやましいことをしていたのではないか」などと穿った見方をされてもおかしくない、そのような空気を感じます。

これから、就活にかぎらず様々な場面で、そんな「facebookを登録しない人は怪しい」空気が更に進んでしまえば、その圧力に負けて私なんかも仕方なくfacebookに登録してしまうかもしれません。

2ちゃんねる」などでの匿名書き込みでの中傷が問題になっていることも、この空気を後押ししていて、ネットの全てを実名化する「ネット匿名禁止法」も、一部で真剣に議論されています。

 

誰もが実名でfacebookに登録する時代。

「すべてがf:id:snowy_moon:20120616212420p:plainになる」時は近いのかもしれません。

 

 

一億二千万人のムラ社会

すべてがfになった「ネット実名時代」では社会はどのようになってしまうのでしょうか。

上で書いたようなどんな人にも見られる可能性というのが、正真正銘「誰にでも見られる可能性」になります。

なので、もはや友人用の自分や、仕事用の自分などの使い分けも許されません。基本的に「全員用の自分」であり続けなければなりません。

これは何もオンライン上だけの話ではありません。現実の行動も、どんな些細なことであっても、他人にアップされるか分かりません。そしてアップされたが最後、永遠にネットの空間に保存されてしまうのです。

つまり、全てのあなたの行動は全員に監視され、そして記録されると思っていないといけません。

そんな中では非常に繊細な立ち回りが要求されます。少しでも「非常識的なこと」や「非道徳的なこと」をすれば、「こいつはこんなひどいことをやっていた」と実名で挙げられてしまうかもしれないのです。そして一度挙げられてしまえば、その行為はあなたの名前とともに永遠にネットで参照可能となります。それを理由に「非常識な人間」というレッテルを貼られて、就活やその他色んな場面において社会から村八分となる可能性があるのです。

常に細心の注意を払って非常に「常識的で」「道徳的な」無難な行動を取る他ありません。

一億二千万人の巨大な巨大なムラ社会の完成です。

この社会では誰も「常識」や「道徳」に逆らえません。

どんなに「常識」や「道徳」が間違っていても逆らえないのです。

それはまるで、戦争に反対すれば「非国民」と揶揄されたあの頃のようです。その頃においては「戦争に貢献すること」こそが「常識」であったし「道徳」であったのです。

 

 

匿名の自由

少し大げさに書いたところもありますが、上記のような社会は嫌なので、私は「全実名化」は反対です。

そもそも匿名制というのは、みんなの自由を守る上で非常に大事なシステムだと思いますし、先人たちもそのことには既に気づいているのです。

最も代表的な例が憲法でも保証されている「無記名投票」つまり「秘密選挙」です。

選挙の時に誰が誰に投票したか分かってしまえば、脅迫・強要・報復・買収などにつながります。それでは、ほんとうにみんなが思っていることが投票結果に反映されなくなってしまい、建前ばかりの社会になってしまいます。これを防ぐために、誰が誰に投票したか分からない無記名投票が採用されているのです。

これは自由民主主義の根っこになる制度で、今回は投票の話ではないものの、昨今の「匿名化禁止」の方向性は非常に怖いなあと、だから私は思うのです。

ネットが匿名だから、みんな本音が言えるし、「常識」も見直すことができるのです。

このブログを匿名でやって、あんまりプロフィールも書かず、その上で言いたい放題やっているのは、多分私のそんな思いもあるからです。

今までどう生きてきたとか、どういう立場で、どういう仕事してるかとか、そんなのより、自分の考えてることを純粋に見て欲しいなって思うんです。

 

 

「ネット実名時代」の子どもの名付け方

さて、ほんとうのとこはどうなるかわかりませんけれど、「ネット実名時代」が今後進んでいくことは十分ありそうです。

そうするとネット上に自分の実名や色んなプロフィールが載ることが多くなってくるかもしれません。

私も実際、自分の実名でググってみると、大変恥ずかしいですけど、どこぞでちゃっかり私のプロフィールが出てきちゃいます。でも幸い、そんなに少ない名前じゃなく、色んな同姓同名の人が出てくるので、仮に名前だけバレてもどれが私かすぐには分からないと思います。ラッキーです(逆にアンラッキーと思う人もいるかもしれませんけど)。

 そう考えると、「ネット実名時代」に向けて、子どもの名前の付け方は、わりかし地味~に仕上げた方がいいのかもしれません。将来、子どもがネットで実名検索されてアレコレ根掘り葉掘り過去を探られるのはしのびないですから・・・。

最近では、むしろ非常に個性的な名付けが流行っています。自分のお子さんに独自の想いをこめたい気持ちは分かるのですけれど、ググって一発1人だけヒットというのは将来まずいかもですよ~、なんて思うのです。

 

 

そんなことよりご飯に行きませんか

結局のところ、よっぽどあけっぴろげな人でなければ、facebookなどにみんなが書くことは「全員向けのヨソ行きの服」でしかなくなります。建前で塗り固められた誰に対しても無難な制服のようなもので、その人の本当に着ている・着たい服、つまり本音は見えてこないんです。

それもそのはずです。私たちは普段大事な話とか、悩んでいることなんかは、誰にでも公開するものではないんです。

 

 「ココだけの話なんだけど・・・」

 

そう、「ココだけ」の話だから、みんな心を打ち明けるのです。

その場限り、その時だけ、そしてその人だけに話せる場だから、本音が出せるんです。

ホールの演台の上や、レコーダーやカメラを目の前にしていては、普通の人は本音なんて出せるわけないんです。そんな演台でのスピーチや、レコーダーに記録されてる会話をどんなに調べたって、その人の本当の姿は分かるはずがありません。そんなものを真剣に集めて、人を評価したり、採否を決めたり、いったいそれは何を見てるというのでしょうか。それって、人の着るヨソ行きの服を見て、中の人を評価するようなものではないでしょうか?ほんとにそれがみんなのしたいことでしょうか??

 

 

だから・・・そんなことよりご飯に行きませんか?

 

美味しい物を食べたり飲んだりしながら、思っていること、感じてることを色々語り合いませんか?

 

それは確かにその時だけの一瞬の語らいでしかなくて、その話は保存もされないし、後で振り返ることもできないけれど、だけど、そんなその時だけの刹那な話だからこそ心に深く刻まれるし、秘密も共有できるし、お互いのことを本当に見られると思うんです。

本当のコミュニケーションって、facebookのような広大なデジタル世界ではなくて、とってもアナログな小さな小さな食卓で行われるもの、そう思うんです。

 

だから、facebookなんてとりあえずどっか本棚にしまっておいて、みんなでご飯に行きましょう。

顔は自分の目で見たらいいし、話も自分の耳で聞いたらいいんです。

 

 

ほら早く、

すべてがfになる前に、

すべてが白く塗りつぶされる前に、

 

 

 

 

 

P.S.

タイトル「すべてがfになる」の元ネタは森博嗣さんの有名な小説です。

内容は多分全然関係なかったと思いますが・・・。

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