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猫ひろしさんを批判しにくい理由 -猫ひろしのジレンマ-

 

国籍を変えてまで出場権を「奪う」ようなやり方が目に余るということで、最近、猫ひろしさんのカンボジア代表としてのオリンピック出場問題が物議をかもしています。

 

タレントのフィフィさんの

「オリンピックに出たいってだけでさ、縁もゆかりもないのに、選手層の薄い国に行って国籍取得してその国の選手と出場枠競って…オリンピックってそんな大会 だっけ?スポーツマンシップってなに?黒人アスリートがこぞって日本人に帰化したらどうするよ?その国の人間が喜ばない事をするもんじゃない。」

というtweet。

 

名選手、有森裕子さんの

「心情的にはこれが本当にいいことなのか複雑だ」

という発言。

 

などなど、各所から批判のコメントも相次いで、どちらかというと批判の意見が大勢のようです。

 

あまりカンボジアに住むつもりもなさそうとか、言葉を覚える気もなさそうとか、そういう態度のようですので、私も心情的には「ずっこいなあ」と思います。

でも、しばし考えこんでみると、猫さんを批判しようと思っても批判しきれないところもあるなあと思うのです。

いつもあまのじゃくな私ですから、世間の流れにあえて逆流しまして、そんな猫さんを批判しにくい理由をちょっと考えてみたいと思います。

 

 

 

 

まず、理由の1つは猫さんの出場は、手続き上では問題がなかったという点です。

今でこそ国際陸連が、その出場権を疑問視してきていて、最終的には資格不十分による出場権剥奪もありえそうな状況になってきていますが、これは昨今の批判の声の流れを受けて空気を読んだというのが正直なところでしょう。

国際陸連の裁定がどうであれ、もともとカンボジア陸連やオリンピック委員会はパスしていますし、国籍変更そのものもカンボジア政府からお墨付きを得ているわけですから、やはり手続きに問題があったとは言えません(ちょっと真偽の程は怪しいですが、国籍変更の発案も猫さんからでなく、カンボジア政府の方から猫さんに国籍を変更しての出場を打診されたという話もあるようです)

これだけ、カンボジア側がOKばかりですし、猫さんとしては「ルールや手続きはちゃんと守ったのに、今更文句言われても・・・」というところでしょう。

それに、批判のキッカケとなったオリンピック出場決定の大分前から、猫さんがカンボジア代表としてのオリンピック出場を目指していることは知られていましたし、報道もされていました。

それを決まった途端に批判っていうのは「後出しじゃんけん」と変わらないですし、「出る杭を打つ」みたいな、それはそれで猫さんと負けず劣らず、ちょっとずっこいやり方なんじゃないかなと思うのです。

 

 

「手続き上のことは置いといて、そうは言っても心情的に同じ日本人として恥ずかしい」

こういう意見もちらほら目にします。

でもちょっと待って下さい。

彼は同国政府も認めた「カンボジア人」なんです。

もはや「日本人」では無いんです。

彼からしたら「なんでカンボジアのことなのに日本人が文句言ってくるんだろう」とさえ思っているかもしれません。

・・・こんな国と民族の問題が猫さんを批判しにくいもう一つにして最大の理由です。

 

 

国と民族の概念って、時にこんがらがっています。

例えば、先ほどのフィフィさんのコメントが顕著です。

 

 「黒人アスリートがこぞって日本人に帰化したらどうするよ?」

 

この黒人さんたちって、でも国籍上は「日本人」なんですよね。

「その国の人間」になっているわけです。

だから「その国の人間が喜ばない事をするな」云々の批判を受けたとして、その黒人さんたちからすれば「同じ日本人なんだから、そんなん言われる筋合いないよ」と言わざるを得ないでしょう。

 

 

それでも「いややっぱりそんなん同じ日本人じゃないよ」と言い続ける人もいるかも知れません。

ですが、そう言い続けることの意味を、ちょっと冷静に考えてみてください。

ええ、私も自分で考えていて、ここまでたどり着いて、ハッとしたんです。

この発言ってすっごく怖い発言だなって。

だって「その黒人さんは国籍上たとえ日本人でも本当の日本人とは違う」って言うってことは、

 

帰化人だろうが、もともと民族的に日本人じゃない人は真の日本人とは認めないよ。お前らなんて日本人って言う資格なんかないよ。

 

って言ってるのと同じですもん。

すっごく民族主義的な発言なんです。

日本国は日本民族のためのもの、カンボジアはクメール人のためのものって、そういう思想に基づいた発言なんです。

いわゆる一国一民族主義というやつでしょうか。

この思想自体の批判はしませんけれど、猫さんの批判の仕方によっては、民族主義思想を支持するところまで、無意識のうちに一気に行ってしまうんです。

これって怖くないですか?

私はやっぱりそこまで思えないので、猫さん批判にも二の足を踏んでしまうんです。

 

 

例えば、アメリカなんかでは、こういう批判は起きないそうです。

他の国から国籍を変えて出場する人も「同じアメリカ人」として皆あっさり受け入れて応援しちゃうとか。

「民族」を気にせず「国」を重視する。

さすが移民の国ですよね。

日本は、ほとんど日本民族の人ですから、ついつい国=民族って無意識に思ってしまうんだと思います(ちなみにカンボジアもほとんどクメール人だそうです)。

そのため、国の代表もあくまで民族の代表という考え方が表に立っているんでしょう。

でも、それが本当に当たり前の考え方なのかどうか、冷静になってこの問題を考える必要があると思います。

 

 

「国」の観点からいけば、猫さんはセーフだし、

「民族」の観点からいけば、猫さんはアウトです。

 

 

あなたは「国」を重視しますか?それとも「民族」ですか?

 

 

・・・こんなの、簡単に答えられないですよね。

この猫ひろしのジレンマは、私たちの根源を揺さぶる結構難しい問題だと思います。