読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

卒業証書を廃止しませんか?

 

3月といえば、卒業シーズン。
3月も半ばを過ぎて、今年も各地で数多くの卒業式が行われたことでしょう。
卒業式の中で、最も目立つのは卒業証書授与ですよね。
「以下同文」って本当に書いてあるものだと思っていたあの頃、懐かしい思い出です。

ところで、そんな卒業証書ですけれど、前から私は思っているんです。


卒業証書、ちょっと廃止してみたら?


   ◆


そもそも、私たちは学校に何故行くのでしょうか。
「学校において授業などを通して知識や考え方を学ぶため」
もちろん、友人ができるとか交友関係の幅が広がるなどというコミュニティとしての側面もありますが、学校という機関そのものがやってくれることと言えば、これが一番の目的のはずと考えてよいでしょう。
学ぶ側の気持ちとすれば、できれば良い教育を受けたいと思うはずです。

では良い教育とはなんでしょう。
先ほどの目的に純粋に当てはめると、「知識や考え方をより学ばせてくれる」教育です。
もっと正確に考えますと、「(卒業後の知識や考え方)-(卒業前の知識や考え方)」つまりその教育で「得られた知識や考え方」が大きければ大きいほど良い教育となるはずです。
差分が大事なんですよね。

ですけど、この差分って、測ったり、比較したりするのがとっても難しいんです。
確かに受ける前と受けた後、どれぐらい頭が良くなったかと言われても、自分でさえ「はて・・・」となってしまうと思いますし、それが他人のことであればもっと困難でしょう。
どれが良い教育なのか、これは非常に頭の痛い問題です。


   ◆


さて、卒業証書に話を戻します。
卒業証書は、授業などに併せて行われた試験や課題を通して「一定の知識や考え方」を得た学生に与えられるものです。
これはつまり、先ほどの「卒業後の知識や考え方」を保証する証明書にあたるわけです。
就職などでは、この卒業証書の有無、すなわち「どの大学を出たか」がとても参考にされるというのは、皆さんご存知の通りと思います。
これは「その人の知識や考え方」がどれだけあるかを見極めたい・測りたいという採用側のニーズに合っているので、ついつい見てしまう気持ちは分からないでもありません。

お気づきの方もいらっしゃると思いますが、ここで実は大きな行き違いが生じます。
良い教育かどうかは「得られた知識や考え方」が大事ですが、就職には「卒業後の知識や考え方」が重要視されるんです。
この2点は似て非なるものです。
ですが、私たちはよく混同してしまうんです。
例えば、○○大を出ている人が「頭が良い」ので、○○大は「良い大学」と思ってしまっていないでしょうか?
先ほどの話の通り、○○大を出ていた人が「頭が良かった」としても、○○大が「良い教育」をしていたかどうかは本当は別問題ですよね?
おそらく、あまりに「得られた知識や考え方」というものが分かりにくいので、ついつい教育そのものの評価に「卒業後の知識や考え方」を見てしてしまうのだろうと思います。
この「卒業後の知識や考え方」を重視する姿勢、これが非常に「教育」にとって危険な発想なんです。


   ◆


「教育の良し悪し」に「卒業後の知識や考え方」が重視されると何が起きるでしょうか。
学校としてはやっぱり「良い学校」って思われたいですよね。
で、どうやら、過程はどうでも、結果的(卒業後)に頭が良い学生がいっぱい出れば「良い学校」と思ってくれるようなんです。
なるほど、それなら――最初から「頭の良い」学生を入れればいいんです。
卒業前から「頭の良い」学生さんなら、卒業後も「頭が良い」傾向にありますから、「あまり教育しなくても大丈夫なので」、とてもおいしいんです。
こうして、「頭の良い」学生を入学させたい、各学校の争奪戦が発生します。
これはもともと教育に熱心であった学校にとっても、無視できない動きです。
だって、他の学校に頭の良い学生を取られたら、もともと「頭の悪い」学生しか入って来ません。
そうすると、いくら熱心に教育しても、卒業時やっぱりそれなりに「頭が悪い」ままかもしれません。
すごく熱心にやっても「悪い学校」のレッテルを貼られるかもしれないんです。
これではたまりません。
教育に熱心なだけでなく、いかに「頭の良い」学生を入学させるかを考えないといけなくなります。
「頭の悪い」学生をいかに排除するかを考えるようになります。
教育になんて力をいれてられないんです。
「良い学生」を選抜すること、これが第一課題に切り替わっていくんです。

この戦いは、すぐにある状況に陥ります。
「頭の良い」学生が入った学校は「頭の良い」学生が出るので、「良い学校」と思われて、また「頭の良い」学生が入ります。
「頭の悪い」学生が入った学校は「頭の悪い」学生が出るので、「悪い学校」と思われて、また「頭の悪い」学生が入ります。
学校の序列が固定化されてくるのです。
昔からずっと「良い学校」のままのところ、いくつもありますよね?
そしてその中に、他の学校に先駆けて「良い学校」になれただけの学校がある可能性が十分あるのです。
この傾向から、「良い学校」に入れば、まず間違いなく卒業の時も、いえ今後もずっとずっと「良い学校」のままだろうという安定感も生まれます。
自分は「良い学校」を出たんだと、一生言い続けることだって不可能ではないのです。

この安定感は、更なる連鎖を引き起こします。
「良い大学」に入るための「良い学校」が登場します。
いわゆる進学校ですね。
彼らの売りはいつもこれです。
「○○大に何人合格!」
これも同じです。
卒業時の結果を重視する考え方なんです。
そして、同じように「頭の良い」生徒を入学させるため、入試などで生徒の選抜に力を注ぎます。
だって、「頭の良い」生徒なら、あまり教育しなくても、○○大の難しい入試も突破できるんですから。


良い就職をするために
良い大学に入るために
良い高校に入るために
良い中学に入るために
良い小学に入るために
良い幼稚園に入るために

――学歴社会の完成です。


私たちは九九を覚えていた頃や、漢字の書取りをしていた頃からか、下手をすると平仮名を覚えたかどうかの幼い頃から「頭が良いかどうか」の選抜の眼にさらされています。
そこに「教育しよう」という心はあるのでしょうか?
できない人をできる人に持ち上げようという心はあるのでしょうか?


  ◆


こんなご時世ですから、私は一回ちょっと卒業証書を廃止してみたらいいのではと思うのです(特に大学)。

企業としては、卒業証書(証明書)が無ければ、就職の大学名で選ぶことは難しくなります。
○○大卒業の人を優遇しようとしてもいくらでも詐称できてしまうのですから。


大学の方も教育の内容に焦点が戻ります。
でも、これは大学としても反対はできないですよね?
卒業証書は教育の内容に関係ないですもん。
ほんとに良い教育をしているのであれば、就職に有利になるかどうかは関係ないんです。
卒業証書亡き後は、「その教育で得られる知識や考え方」が豊富であれば、みんな「良い大学」なんだと分かってくれるはずです。
卒業証書廃止に反対する大学は、「教育の内容に自信が無い大学」と言われても文句は言えないです。


大学の序列の基準が崩壊すれば、高校以下の進学校などの立ち位置も変わります。
○○大に入れるかどうかは意味がなくなるんですから。
点数ばかり追いかける詰め込み教育はもうやめましょう。
二度と戻らない青春時代に何を教えるべきか。
非常に難しいと思いますが、やりがいはあるんじゃないでしょうか。


   ◆


卒業証書。
それは初めは本当に「良い教育」を受けたかどうかの証拠であったのかもしれません。
でも私たちはもはや「良い教育」ではなくて「卒業証書」そのものを欲しがっていないでしょうか?
○○大の「教育」を受けるためでなく、○○大の「卒業証書」が欲しいがために○○大を受験したり、入学したりしていないでしょうか?
授業料を本当に「授業」のための代金と思っているでしょうか?
あなたはお金で「卒業証書」を買ったのではないって、心の底から言い切れますか?


企業のみなさんも、そろそろ人を見ようとしてみませんか?
人を見ることや、選ぶことって確かにほんと難しいと思います。
ついつい学校名なんかの分かりやすい項目に目を奪われそうになる気持ちもわかります。
でも、人の名札ばかり見て、あなたはその人の何が見えてるんですか?
その人の顔すら見えていないのではないですか?


教育界の皆さん、卒業証書があるせいで、教育に専念できないのであれば、もうそんなものやめてもいいんじゃないですか?
教育に必要なのは結果ではなくて過程だと思うんです。
そして、その教育を評価できるのは受けた本人たちだけです。
だって、自分たちがどれだけ成長したかは、本人たちにしか分からないですから。
学生たちが「この教育を受けてよく学べた」と感謝する、そんな自己完結した満足感が、私は見たいです。




卒業証書からの卒業。
その道は遠く。
私たちはいつまで留年するのでしょう?

 

広告を非表示にする