雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

自分を批判する人になろう

 

「批判する人」って、まじダサい。/「批判される人」になろう - デマこいてんじゃねえ! 「批判する人」って、まじダサい。/「批判される人」になろう - デマこいてんじゃねえ!

 

お気に入りblogさんの記事なんですが、「批判」を「批判」する話が「批判」にあってるような何だかすごいことになっていました。

このお話の中にもあるんですけれど、ほとんど「批判」というより「けなす」とか「バカにする」ような形で、他人の意見を否定する人って時々いますよね。
私もついつい違う意見を見て、カッとなってしまうことがありますけど、その度すごく反省しています。
違う意見に出会ったときって、自分が成長できるチャンスなんです。
そんなチャンスをみすみすつぶしてしまうなんてほんともったいないと思うんです。


                ◆


Aさんが私と違う意見を言っているとします。
私としては私の意見が正しいと思っているので、「それって違うんじゃないの?」と思うわけですが、こういう時はAさんも自分の意見が正しいと思っていて、私の意見に「それって違うんじゃないの?」と思っているはずです。
こういう時、ついつい「どちらかが本当は正しくて、どちらかが本当は間違っている」って話になってしまうんですが、私はそうは思いません。
「本当にどちらも正しい」と思うんです。


私もAさんも自分の持っている「情報」や、自分の中で築き上げた「考え方」で、十分考えた後に自分の「意見」にたどり着いています。
私の「情報」を基に私の「考え方」で考えた、私の「意見」は私にとっては正しいし、Aさんにとっても同じようにAさんの「意見」はAさんにとっては正しいです。
それぞれにとって正しいはず「意見」が違うってことは、「意見」のもとに基になっている「情報」か、それを整理する「考え方」が違うだけなんです。
「何言ってるの?それならそれで、その情報や考え方が、どちらかが正しくてどちらかが間違ってるって話なんじゃないの?」と思われるかもしれません。
でも、正しい「情報」や正しい「考え方」なんて本当に決められるんでしょうか?
というより、決める意味なんてあるでしょうか?


私たちは誰一人とっても、同じ人生を歩んでいる人はいません。
たとえ双子の方々でさえ、そうでしょう。
人生で得た知識や経験なんかの「情報」や性格や経験から築きあげられた「考え方」は皆一人一人絶対に違うんです。
正しい「情報」だ、正しい「考え方」だと言った所で、絶対にそれに揃えることはできないです。
だって、それはみんな一人一人の人生そのものなんですから。
どうやっても、みんなが同じ人生になることはできないんです。
なので、たとえ同じ「意見」を持っている人同士であっても、基になってる「情報」や思考過程となる「考え方」が違うので、たまたま同じ「意見」なだけとも言えます。
世の中で「正しい意見」とされているものがあったとしても、それは「これが正しい意見だ」と思っている人が多いだけ、あるいは発言力が強いだけに過ぎません。
このような状況でどちらが正しい「意見」で間違っている「意見」と議論することに意味なんてあるでしょうか?


私たちにできることは、ただ一つです。
自分の中で、自分の「意見」をより良い「意見」にしていくことです。
つまり、私の中でより納得できる「意見」を追求していくことだけなんです。
自分で勉強・経験して、様々な自分の「情報」を増やす、何となく思っていたことをもっとよく考えて自分の「考え方」を更に研ぎ澄ます。
そうやって自分の「情報」や「考え方」を成長させていけば、自然に自分の「意見」もより納得のいくものになっていきます。
「意見」を変える時、私たちは新しい「意見」の方が古い「意見」より納得がいく「意見」だと思ったから変えるんです。
逆だと思えば、変えないだけです。
他人同士では無理ですが、自分の中でだけは「意見」の良し悪しは比較できるんです。


さて、自分の「意見」をより良くするために、とっても有用なのが、Aさんのような自分と違う「意見」です。
「違う意見」の背景には自分の「情報」や「考え方」からは大きく違う「情報」や「考え方」が秘められているはずです。
結論が違うのですから、原料か過程が違うはずなんです。
これはまさに未知との遭遇です。

Aさんに「違う意見」の理由を教えてもらえば、その未知に触れることができます。
Aさんの「情報」や「考え方」を自分が正しいと思うかどうかは問題ではありません。
それを採用するかしないかに関係なく、自分の「情報」や「考え方」はAさんのものと融合して、確実に成長しているのですから。
そして、その成長した「情報」や「考え方」でもう一度その問題についてよく考えてみればいいのです。
どちらがもっと良い「意見」だろうって。
この時選んだ「意見」は今までの自分の「意見」よりも、もっと納得いくものになっていることでしょう。

逆に私の「情報」や「考え方」はAさんにとっては未知の宝箱です。
自分の「意見」の理由を示してあげれば、Aさんの中で、Aさんの「情報」や「考え方」が成長するはずです。
納得いかない「意見」があるなら、お互いの背景をできるだけ掘り下げて、「情報」や「考え方」を照らしあわせればいいんです。
それはお互いにとって自分の中でより納得のいく「意見」を作る助けになるはずです。


このように自分の「意見」の背景を見せ合うこと、これがお互いに気持ちのよい「議論」や「批判」の形だと私は思います。

 

                ◆



「違う意見」をいきなり否定しまうことは、自分の「意見」をより良くしていこうとしない姿勢に他なりません。
自分の「意見」をより良くしていこうとしないということは、自分の「情報」を増やしたり、「考え方」を研ぎ澄ませたりしない、つまり自分の人生を閉じ込めることです。
それが正しいとか間違っているとか、それは分かりません。
ですが、自分の「意見」を主張して、できるだけその理由を提示してくれている人にとっては、その「意見」を理由なしに否定される筋合いはないでしょう。
そもそも他人の「意見」をただ否定して、「意見」を変えさせようとしても無意味です。
他人からは「意見」を直接は変えられないのです。
ガリレオは、どんなに自分の「意見」が否定されても、自分の中で納得できていなかったから、「それでも地球は回ってる」とつぶやいたのです。
「違う意見」をただ否定することは、何の意味もない行為です。



誰かが言っていました。


 自分の意見を強くしたいなら、まず自分の意見を否定してみろ


そうなんです。
否定するべきは他人の違う「意見」ではなく、自分の「意見」なんです。
自分の「意見」を否定して、また数多の「意見」の中で、どれが自分の中で一番納得いくかどうか改めて考える。
自分の思考の中での「意見」同士の厳しい戦いの中で、それでも這い上がってきた「意見」は、元の「意見」よりずっとたくましくなっているはずです。
そして、時々、自分の「意見」の理由を他人に見せてあげれば、その人の「意見」を否定なんてしなくとも、勝手に納得して「意見」を変えてくれることもあるでしょう。
納得せず、変えてくれないこともあるでしょう。
その人の「意見」はその人に任せるしかありません。
私たちにできるのは、その人に自分の「意見」の一端をできる限り示してあげることだけです。
その人の「意見」を否定する資格は他の誰でもなく、その本人にしかありません。



結局、これは本当に悲しいぐらいに孤独な戦いなんです。
そして、この戦いでは「違う意見」の他人は敵ではなくて、味方なんです。
「こういう情報もあるよ」「こういう考え方もあるよ」って思考の材料をを交換しあう同志なんです。
より良い意見を求め続ける同志なんです。
私たちは、確かに違う「意見」を目にした時、その異物感にアレルギー反応を起こしそうになります。
ついつい、吐き出したくなってしまいます。
でも、そのアレルギーを押さえて、よくよくその異物を見ると、それはとても素敵なプレゼントであることに気づくはずなんです。
そんなプレゼントをもらって、もっともっと考えて、自分の中で更に良い「意見」に達した時、その喜びは本当に大きなものです。
逆にプレゼントをあげて、受け取ってくれたサインをもらえた時、それも本当に嬉しいことです。
それは互いにかけるエールのようなもので。
これがあるから、また前に足が踏み出せるんです。

 

だから、私たちは考えることを、意見を話しあうことを、やめられないんです。