雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

ユートピアでも解決できないマッチング問題

私は時々極端な世界を想像して「どんな感じかなー」とボーっと考えてます。

思考実験と言うか、妄想と言いますか、とにかく頭の中で仮の世界を思い描くんです。

目の前のこの世界における具体的な現実問題を考えるのも好きなんですけど、どちらかと言えば、こんな夢想的な話を考える方が好きなタイプだったりします。

 

それで、こないだはこんな想像をしていました。

 

「とにかく自由で平等で、技術も高度に発達した世界なら、みんな幸せになる?」

 

自由で平等で、高度な技術を持った世界。

日本を始めとした自由世界の理想の延長線上、まさにユートピアと言ってもよい世界です。

現実の世界では、様々な格差や差別や不満が渦巻いていますが、こんな極端なユートピアならちゃんとそのような問題がキッチリスッキリ解決して、みんな幸せになれるんじゃないかって、ふと思ったんです。

 

でも、よくよく考えると・・・、そんなユートピアであっても、やっぱりみんなが平等に幸せになるのは難しいんじゃないかという結論に至ってしまいました。

 

その理由が、ユートピアであっても、タイトルにある通り「マッチング問題」が解決できないからです。

 

ここでは「マッチング」とは、人と人のペアだったりグループを作る行為を指します。

そして、「マッチング問題」とは、ある人が、ある人とペアを作りたかったり、あるグループに所属したいと思っているにもかかわらず、それが実現できない状態を意味しています。

 

具体的には、「結婚」や「就職」が代表例です。

 

AさんがBさんと結婚したいと考えていたとしても、BさんもAさんと結婚したいと思っていなければ結婚できませんね。現実の日本社会でも既にそうですが、とにかく自由で平等なユートピアではもちろんBさんのAさんと結婚したくないという自由意思は尊重されなければなりません。

結果、Aさんの欲求とBさんの意思が相反することになり、この結婚は成り立たず、Aさんの欲求が満たされることはありません。すなわち欲求不満が生じるということで、Aさんの幸福度は下がってしまうでしょう。

 

就職も同様です。

AさんがC社に入社したいと考えていたとしても、C社がAさんを採用したいと思わなければ、AさんはC社に入社できません。なぜなら、C社も会社という人でない存在ではありますが、実質はユートピア内で自由を保障された個人の集団ですから、C社のAさんを採用したくないという意思決定の自由も尊重されないといけません。

結果、Aさんは入社したかったC社に採用されず、欲求不満になってしまいます。

 

もちろん、毎回このようにマッチングが成立しないわけではありません。

BさんはDさんと相思相愛になり結婚するかもしれませんし、C社は入社希望のEさんを気に入り採用を決めるかもしれません。

 

問題は、ちゃんとみんなの自由意思を平等に尊重したにもかかわらず、結果としてDさんやEさんのように希望通りマッチングできちゃった人とAさんのようにマッチングできなかった人が生じてしまうことです。分かりやすく言えば結婚したいのに結婚できない人が出てしまうということですね(なお、ユートピアでは結婚したくないのに本人の自由意思に反して結婚させられちゃう状況は無くなります。とにかく「自由」な世界なので)。

これは当然、幸福度の格差につながりますから、「みんな幸せ」という状況とは言い難いところです。

 

ユートピアであっても、「マッチング問題」が解決できないというのはこういうことなんです。

 

 

そして、その上で考えていただきたいのは、ここが高度に技術も発達したユートピアということです。

まるで一振りで食べ物も衣服も家もテレビも自動車もスマホも何でもかんでも出てくる魔法の杖のように極端に技術が発達してる状況です。

ただただ時間のかかる雑用だってロボットが何でもこなしてくれるでしょう。

このような想定の世界では、物質的な面では満たされるので、「貧困」「多忙」のような物質的・時間的な格差や不満は、現実世界に比べ、完全に無いか非常に少なくなっているはずです。

その一方で、先ほどのような「マッチング問題」はあまり解消されず、今現在の現実世界とほぼ同等に残されます。

つまり、「マッチング問題」が目立って取り残されることになるわけです。

 

結婚したいけどできなかった、でもその代わりお金は他の人に比べいっぱい持ってるので独身貴族として豪遊を楽しめる。

やりたい仕事につけなかった、でもその代わり他の人に比べ相対的に楽な仕事なので自由時間を満喫できる。

のように、「マッチングできなかった」代わりに、他の優位点を見つけることで自分の中の欲求不満を和らげることが現実世界では可能ですが、ユートピアではみんなお金も時間も持っているので、その点での優位性は持てません。

なので、マッチングできた人か、マッチングできなかった人か、だけで人に差がついてしまいます。

 

ここからは、幸せとは自分の中だけで完結する絶対的なものなのか、人と比較して感じる相対的なものなのかという議論も出てきてややこしいのですが、物質的な欲求が満たされていたからといって関係性的な欲求が満たされなかった場合、その上で関係性的な欲求も満たしている層が同じ世界に多く存在している場合に、果たして人はどれだけ幸福を感じられるでしょうか?

個人的な印象としては、やはりこれで「みんな幸せ」とはならないんじゃないかなと思うんです。

 

 

この「マッチング問題」を解消するには方法が無くはありません。

 

一つには、マッチングのハードルを皆が一斉に下げることです。要するに「あの人と結婚したくない」とか「あの人と一緒に仕事したくない」という他人の足切りがほとんど無ければマッチング問題は起きません。ただ、そんな「誰でも良い」みたいな意思が、個人の個性的な「意思」と言えるのかどうか、皆が同時にハードルを下げることを想定するのが「自由な世界」と言えるかどうか非常に疑問です。

 

もう一つは、クローン人間を作ってしまう作戦です。例えばBさんと結婚したい人がAさんを始め3人いたとしたらBさんを3人作ってしまうという荒業です。これでマッチングの確率は上がります。ただ、複製されたBさんのAさんと結婚したくないという「自由意思」は無視なのか、そもそもAさんも「複製があるBさん」と結婚したいのか(世界にただ一人のBさんがいいのでは)、マッチングが就職だったらC社社員を全員複製しないといけないなど、なかなかカオスな状況が生まれます。

 

最終手段としては、誰かの「自由」を制限する方法があります。

AさんがBさんと結婚したいけど、誰もAさんと結婚したい人がいなかったならば、Bさんの「自由」を制限して、BさんをAさんと結婚させるという方法です。

Bさんを自由保障の対象外(すなわちマッチング問題の対象外)とすることで、自由保障対象者内でのマッチング問題を解消するという豪腕な方法です。

ひどい話のようですが、結婚相手の選択の自由が当人に無い時代は歴史上長く有りましたし、現代でも会社の採用は全くの「自由」ではなく色々条件がついています。なので、不思議な話ではないのですが、ユートピアの設定の「とにかく自由な世界」とは言えない状態にはなってしまいます。

 

このように「マッチング問題」を解消しようとすると、どうしても自由や平等を制限したり、人々の価値観(多重婚の許可、人間の複製容認など)を操作したりしなくてはならなくなり、ユートピアの「とにかく自由で平等な世界」から離れてしまいます。

これが「マッチング問題」の最大のジレンマになります。

 

 

以上のようなことをボーっと考えて私は「ユートピアでもみんなが幸せになることは難しい」という悲しい結論に至ったのですが、恐らくみなさん「そんな想像上の話をして、だから何なんだ。現実世界ではそうはなってないんだからどうでもいい」と思われるかもしれません。

 

確かに、今現在の現実世界の問題を考えることは大事です。

こんな想像上の話をいくら考えても目の前の問題は解決できません。

ですが、私たちの社会が目の前の問題ばかり解決するだけで十分かといえば私はそうは思えません。

目の前の問題ばかり考えることは、通行の障害になっている道の石をどける作業ばかりで、そもそも自分たちがどこに行きたいのかを考えたり議論しないようなものです。知らぬうちにグルグル回っていたり、あらぬ方向に進んで行ってしまっている危険性があります。

私たちがどこに行きたいのか、行った先はどうなっているのか自分たちで考えなければ、私たちの社会の針路は決まらないのです。

特に「行った先がどうなっているのか」を一度立ち止まって考えることは、大声で理想を掲げ、あたかもそれで何でも解決するかのように宣伝する者に扇動されないために必要なことと思います。

 

ですから、今回の「マッチング問題」の議論で言えば、私たちの社会が「マッチング問題」とどう付き合いたいのかが問われています。

 

「マッチング問題」は必要悪としてマッチングできなかった方々の不幸は容認するのか、逆に「自由」や「平等」を制限することで「マッチング問題」の解消の方を選択するのか。

 

理想の上でも全てを満たすことができないという厳しい現実のもと、私たちは理想をどう掲げるのか考えなければならないのです。

 

 

さあ、どうしましょう?

 

 

 

 

P.S.

ユートピアでも「就職」があるかどうか、というところはちょっと議論があるかなとも思います。ただ、雑用はロボットにまかせて無くなっても、「意思決定」的な仕事は人の価値観を問うものですから、人以外は回答できません。なので、多分、人の「仕事」が完全に無くなることはないんじゃないかなとしました。

それに、「仕事」じゃなくて、趣味の「サークル入部」でも何でもいいですし。

 

(3985文字)

高齢者の選挙権は制限するべき?

こんばんは、雪見です。

毎日暑くて嫌になりますね。

 

さて、先日こんな記事が話題になっていました。

oshiete.goo.ne.jp

 

この記事では、高齢者は能力が劣っているのだから、高齢者の選挙権を制限してはどうかという提案をされています。

高齢者選挙権制限の発想は、先日私も大阪都構想に関する記事を書いた時にちらりと紹介しましたけれど、高齢化に伴いシルバー民主主義が叫ばれるようになって、最近ちょこちょこ目にするようになりました。

 

高齢化に伴って、数が多い高齢者の意見ばかり通って、少数派の若者の意見が通らない。これはズルい。だから、高齢者の選挙権を制限するべき。

一見するとそうかもと思わせる理屈ですが、本当にそうでしょうか。

 

ちょうど良い機会ですので、長谷川さんの主張などなどを参考に、高齢者の選挙権は制限するべきかという問題について今回は考えていきたいと思います。

 

選挙権の行使には判断力が求められている?

まず、長谷川さんを始めとする高齢者選挙権制限派の主な主張の一つである「高齢者は判断力が落ちているのだから選挙権を行使するべきではない」という議論について考えます。

なるほど確かに歳を重ねると、次第に判断能力は落ちていきますよね。私なんかも悲しいことですが最近はボケボケな行動が多くなり、歳の重みを実感しています。

 

ただ、そもそも選挙権の行使に求められているものは「判断力」なのでしょうか。

 

長谷川さんは「的確な判断」というように表現されていることから見て、選挙には正解と不正解があってそれを見極める判断力が必要と考えてらっしゃるようです。

しかし、選挙に正解というのはそもそも存在するでしょうか?

Aという候補者とBという候補者が居た時に、どちらに票を入れるべきか客観的な正解があるでしょうか?

 

そんなものはありません。

 

A候補の考え方に近い方は、A候補に票を入れるのが正しいと思うでしょうし、B候補に考えが近い方はB候補に票を入れるのが正しいと思うでしょう。

ある人は大阪に行きたいと思っていて、ある人は札幌に行きたいと思っているようなもので、それは好みや価値観と言うべき範疇です。

結局正しい正しくないの判断はそれぞれの価値観に立脚していて、ここに客観的な正解なんて無いんです。

 

むしろ、客観的な正解がないからこそ、選挙をしているとさえ言えます。

数学の問題を解く時のように論理的に客観的に正解が導けるのであれば、選挙なんてする必要はありません。

選挙で問われているのは正解を選ぶ力ではありません。

あなたが「どうしたいか」、社会に「どうあってほしいか」という、あなたの価値観や意思決定が問われているのです。

正解がないからこそ、みんなのことをみんなで決めているのです。

 

もちろん合理的な思考や判断力があった方が良いのは間違いありません。

例えば東京から大阪に行きたい時に、判断力が乏しいと、何故か札幌行きの飛行機を予約しちゃうなど、目的に合致しない手段を選んでしまうという可能性はありえます。

 

しかし、目的なき論理は無力です。

目的地を定めずに移動方法を考えろと論理的思考の塊であるコンピューターに要求してもうんともすんとも言いませんよね。「どこどこに行きたい」だとか「こういう計算をしてほしい」とか「これを調べたい」などの、目的が明確になってこそ最適な手段を選び実行してくれます。

目的(価値観)は論理的思考のみから決して導かれえないものです。

 

同じように、政治家や官僚などの(多分)判断力のある人たちに、どうしたいかというあなたの意思(目的)を伝えるのが選挙の役割であって、判断力より先にまず価値観や目的意識が必要なのです(そもそも、そのあたりの「判断」を専門家に委任することが間接民主制や官僚制の本質的な意義と思います)。

 

そして、価値観は判断力といった「能力」と違い、劣っていくものではないでしょう。

むしろ高齢者の方こそ長年の経験から価値観が成熟している可能性さえあるかもしれません。

 

従って、判断力が劣っているから高齢者の選挙権を制限すべきという議論は、選挙に客観的な正解があるとか、価値観に優劣があるという前提に依っていて、私にはあまり適切な議論とは思えません。

 

ちなみに、最近では成年被後見人の選挙権回復がなされるなど、判断力を理由にした選挙権制限はむしろよろしくないという方向の動きがあることは念頭に置いておくべきと思います(参考:総務省HP)。

 

未成年の選挙権制限と高齢者の選挙権制限の違い

次に、未成年も選挙権が制限されているのだから、高齢者も制限してよいだろうという議論についてです(正確には今後未成年じゃなくて18歳未満になりますけど)。

 

知識や能力不足により未成年の選挙権が制限されているとするならば、能力の劣る高齢者も制限するべきというのは、一応筋は通っています。

しかし、上でも述べた通り、選挙に求められているのが能力ではなく価値観であるならば、話は違ってきます。

 

生まれて間もない赤ちゃんは皆知識や能力も無いですが、価値観も形成されているとは言えません。成長につれて様々な経験をし、学習をし、世界を見るなかで、自分が「どうしたいか」ということを考えるようになりますが、しばらくはそれも不安定なのは間違いありません。

ですから、何歳で区切るかというところに議論はあるにせよ、安定した価値観形成を待つ意味で、年少者の選挙権に一定の制限を設けることは妥当と思います。

一方で、十分な人生経験があり、安定した価値観を形成していると思われる高齢者の方々には、この意味では制限をする必要はないことになります。

 

また、仮に、価値観ではなく能力によっての選挙権制限を良しとしたとしても、高齢者の選挙権制限を設定するのは困難と思います。

なぜなら年少者に比べ高齢者の方々の方が能力の個人差が大きいからです。

長谷川さんは個人差があるのは年少者も高齢者も同じとしていますが、個人差があるという点では同じでも、個人差の程度がまるで違うのです(というか若者でも中年でも個人差はありますし)。

 

先ほども言ったように生まれて間もない赤ちゃんは皆等しく知識や能力はありませんが、同じ80歳の高齢者でも、寝たきりや認知症の人もいれば、バリバリ仕事やスポーツをしている人もいて、その能力はてんでバラバラです。バラつきが大きすぎてどの年齢で区切るのか年少者の制限以上に設定が困難です。

 

そして、これだけ個人差が大きい以上、「高齢者」とひとくくりにして制限をするのは、個人の性質を見ずに属性(カテゴリー)の統計的性質だけを見て個人を取り扱う、統計的差別につながります(参考:統計的差別)。

 

高齢者は未来が無いから選挙権を制限するべき?

高齢者はもう先が長くないので未来を決める選挙に参加するべきではないという議論もポピュラーです。

例えば、長谷川さんだけでなく、ちきりんさんも平均余命による票の重み付けを提案されています。

 

 

しかし、この単純な平均余命による票の重み付けというのは先程の統計的差別の最たるものです。

健康に気を使って持病も何もない70歳の方と、不摂生に不摂生を重ねメタボシンドロームは当然のこと心臓やら脳やらに爆弾を抱えているみたいな同じ70歳の方では、期待余命は全然違いますよね。これが前者が80歳で、後者が60歳だとしても、前者の方が余命が長い可能性さえあるでしょう。

 

でも、平均余命による重み付けというのはこの両者を同じと扱うことになります。

健康に気を使っていてこの先も長生きする見込みで、だからこそ未来についてよく考えている方の意見の重みを減じ、健康に気を使ってないしもう先は長くなさそうだから短期的視点でいる方の意見の重みを増すことになります。

選挙は未来を考えるべきものという前提を置くとしても、これは望ましいことではないでしょう。

 

つまり、年齢という要素だけを利用した平均余命での重み付けというのは非常に乱暴で正確性を欠くのです。本気で未来のことを考えてやると言うなら、それぞれの病気の有無だとか健康志向だとか年収だとかなんだとか、様々な要素を鑑みてやる必要があります。

ただ、リスク分類別の正確な余命の推定というのは各生命保険会社が血眼になって研究しているような分野で、そうそう簡単な調整ではありません。

 

 

さらに、選挙は未来を考えるべきものという前提を置いた時には、余命の長短以外にもっと調整し難い不都合な要素があります。

 

それは転出の自由があることです。

 

特に地方選で顕著ですが、正直な所、私たちはその土地が気に入らなかったら転出できてしまいますよね。

つまり、困ったらその土地を出ればいいんだからという発想で、未来を考えず短期的な利益を求める投票行為を為す可能性というのは否定できないのです。

 

これは未来を考えるべき派からすると選挙権を制限するべき事例のはずですが、転出は本人の自由意思ですから、当然調整できません。

なお、国政であっても、国籍を捨てる自由というのが実は保証されているので、同じ問題が存在しています(日本国憲法 第22条)。

ですから、もし選挙というのは未来を考えるべきという視点から余命による票の重み付けを考慮するならば、同様の短期的思考を産みやすいと思われる転出行為を制限する必要も出てしまうことになります。

 

そして、そもそものそもそもですが、選挙では未来に向けた判断をするべきものなのでしょうか?

実のところ私は個人的意見としてそう思ってはいます。

しかし、未来に向けた長期的な視点の判断をするべきというのも、一つの価値観でしかありません。あくまで「社会は是非長期的に継続可能であってほしい」という私の個人的な好みでしかありません。

今まさに生活に困っていてとにかく助けて欲しいと、短期的利益を求める投票行為が間違っているとなぜ言えるのでしょうか?

話し合って互いに歩み寄るべきポイントではあっても、どちらかが正しいというような事項ではないのではないでしょうか。

それなのに、未来に向けた判断をするべきと言って、余命が少ない高齢者の選挙権を制限しようというのは、非常に独善的な意見と私は感じます。

 

高齢者の投票行動が間違っているというのは誰が判断してるのか、何をもって判断しているのか

さらにそもそもな話ですけれど。

高齢者の選挙権を制限しようというからには、高齢者の投票行動が間違っていたという事例や根拠が何かあるはずです。

しかし、それは誰が判断して、何をもって判断しているのでしょうか。

 

繰り返しになりますが、投票行動というのは価値観の発露であって、そこに正しいも間違ってるも無いと私は考えています。

でも、もし仮に正しいとか間違ってるということがあるとして、それは誰がどうやって判断しているのでしょうか。

 

例えば、大阪都構想は否決されましたが、大阪都構想が通った方が良かったのか、否決されてやっぱり良かったのかはどうやって判断するのでしょう。

それを客観的に判断するには、「大阪都構想が通った大阪の未来」と「大阪都構想が否決された大阪の未来」を比較する必要がありますが、実現しなかった「大阪都構想が通った大阪の未来」を観察することは、もしもボックスを持ってない私たちにはできません。

なので、若年者の投票行動が正しくて、高齢者の投票行動が間違っているというのは、理論上はありえるとしても、その客観的な判定は現実的には不可能なはずなのです。

だから、高齢者の投票行動が正しくて、若年者の投票行動が間違っている可能性も同じように残っています。

 

それなのに、高齢者の投票行動が間違っていると判断するとすれば、それは結局「自分の判断は正しくて反対した高齢者の方が間違っているに決まっている」という主観的な価値判断でしかないのではないでしょうか。

このような主観的な根拠に基いて「高齢者には合理的な判断能力が欠けている」などと言ってしまうとするならば、そんな「自分の方が正しいに決まっている」という考え方こそ、むしろ最も合理的思考からかけ離れているように感じます。

 

もちろん、自分の判断を正しいと信じる、一定の自信とか信念は必要ですし、それこそが「価値観」と呼べるものと思います。

しかし、それを「自分の個人的価値観」と認識せず、「絶対的な客観的な正義」と思ってしまうのはいささか問題ではないでしょうか。

 

「シルバー民主主義」は「一票の格差」とは別物

多数派である高齢者の意見が通りやすいシルバー民主主義を、高齢者と若年層の「一票の格差」と評して是正するべきという意見も見られます。

 

 

でも、これって「一票の格差」でしょうか?

 

いわゆる「一票の格差」というのは、都会と田舎の対比で、人口が多い都会に対して人口が少ない田舎の方が人口当たりの被選挙人が多いことを指しています。

つまり、都会の一人あたりの票の重みが田舎の一人あたりの票の重みより弱くなっていることが問題となっています。

 

一方のシルバー民主主義は、多数派の高齢者集団の意見が少数派である若年者集団の意見より強いことを指していますが、よくよく考えれば多数派集団が強いのは多数決を採用している以上当たり前です。

別に高齢者一人あたりの票の重みが若年者個人の一人あたりの票の重みと異なるわけではなく、どちらも同じ一票として選挙は争われます。

これは「個人単位の一票の格差」ではなく、ただの「集団の総票数の格差」で、似て非なるものです(というより似てない気がします)。

 

少数派の意見が切り捨てられてしまう「死票」の存在を問題にするのであれば、そもそも「多数決」というシステム自体が「死票」の出現が避けられないものですから、「多数決」そのものの問題と言うべきでしょう。

 

少なくとも「シルバー民主主義」を「法の下の平等」に反しているとして問題となっている「一票の格差」という表現にすり替えることは、むしろ「法の下の平等」の前提の上でこそ成り立っている「シルバー民主主義」の本質をミスリードするもので、適切とは言えません。

 

その上でなお、多数派である高齢者の票は制限するべきとするなら、では他の多数派の属性の票は制限しなくていいのかという問題が生じます。

 

例えば、大阪でたこ焼き推進法の是非を問う住民投票があったとします。

当然、たこ焼き好きな人はたこ焼き推進法に賛成の人が多くて、たこ焼き嫌いな人がたこ焼き推進法に反対が多いです。もちろん大阪にはたこ焼き好きな人が多いですね(偏見?)。そうすると、多数派のたこ焼き好きの支持を背景に、過半数の票を得たたこ焼き推進法が可決されます。

さて、だからといって、多数派のたこ焼き好きの人の意見ばかり通って、少数派のたこ焼き嫌いの人の意見が通らなかったとして、たこ焼き好きの人の票を制限するべき、となるでしょうか。

実際にたこ焼き好きの人が多くてたこ焼きを推進するべきと考えている人が多いなら、それが支持されるのは当然ではないでしょうか。

 

では少し例を変えて、大阪都構想の是非を問う住民投票を考えましょう。

ここで実は、たこ焼き好きの人が大阪都構想に反対の人が多くて、たこ焼き嫌いの人が大阪都構想賛成が多かったとします。

で、大阪都構想が否決されました。

さて、多数派のたこ焼き好きのせいで大阪都構想が否決されたから、たこ焼き好きの人の票を制限するべきでしょうか。

 

馬鹿げた話のようですが、高齢者は多数派で意見が強いから制限すべきという議論をするならば、同様にこのように投票行動と相関がある他の属性に関しても制限をするべきということになるのです。

それなのになぜ、年齢についてだけ制限をかけるのか、性別は良いのか、職業は良いのか、血液型はいいのか、星座はいいのか、たこ焼き好きか否かはどうなのか。

多数派を理由に、年齢だけ制限して年齢以外の他の多数派の属性について制限を加えないとする根拠を見出すのは難しいと思います。

 

秘密投票制なのに出口調査を根拠に制限してよいのか

最後に、細かいところですが、秘密投票の原則に関連した問題も紹介します。

 

ご存知の通り、日本の選挙は秘密投票制を敷いていて、誰が誰に入れたか分からないようになっています。

これは、投票先の相違が露わになって、不当な報復や脅迫などが起こることを防ぐ目的があります。

簡単に言えば誰が誰に入れたか分からなくすることで、「あいつ、俺と反対意見の候補に入れやがった、いじめたろ」ということが出来ないようにしているわけですね。

 

一方で、大阪都構想住民投票の際、都構想否決は高齢者が反対に回ったせいで、シルバー民主主義ではないかという議論が巻き起こりました。

でも、なぜ秘密投票なのに、高齢の方に都構想反対派が多いことが分かったのでしょうか。

別に不思議でもなんでもないですけど、それは、投票所の出口で「どちらに投票しましたか?」とアンケートをする出口調査というものがテレビ局や新聞社など主導で行われているからですね。

もちろんこれは強制ではなく「答えてもいいよ」と自発的に出口調査に協力してくれる人の答えを集計しています。その際に年齢などの属性も併せて回答することで「高齢者に反対派が多かった」ということが分かるわけです。

 

出口調査の「高齢者に反対派が多かった」という結果から高齢者の選挙権を制限しようとすることに関しては、まず、出口調査そのものの正確性についての問題があります。

秘密投票制なので、投票行動が分かっているのは出口調査に協力してくれた人たちだけです。ですから、出口調査に回答してくれた高齢者の方々は反対派が多かったけれど、出口調査に回答したがらなかった高齢者の方々は賛成派が多い可能性も残るわけです。

その意味で、出口調査の結果は必ずしも正確ではありません。

とはいえ、出口調査自体の精度も長年の検討である程度担保されていることは分かっていますので、大きな問題では無いとは思います。

 

私が思うより重大な問題は、出口調査の「こういう属性の人がこういう投票指向である」という結果を選挙権の制限の根拠にするのは、秘密投票制の意義に反するのではないかということです。

要するに、出口調査で高齢者に都構想反対派が多かったことが判明したのをきっかけに「シルバー民主主義は問題だ」と言い始めるというのは、秘密投票制で防ぎたかったはずの「高齢者のやつら、俺の支持する都構想反対しやがった、いじめたろ」と何が違うのかということです。

 

公的には投票先は秘密とされているのに、非公式な投票先の調査の結果に基いて、選挙権というこの上なく公的な権利を制限するというのは本末転倒というか、何のための秘密選挙制なのかということになり、筋が通らないのではないでしょうか。

せめて筋を通すとすれば、ハードルは高いですが、秘密選挙制の規制を緩和して、選挙権の制限の根拠に用いることを名言した上での公的な調査が必要と私は感じます。

 

 

高齢者の選挙権を制限するべきという価値観も尊重されるべき

以上のように、高齢者選挙権の制限について、どちらかといえば私は否定的な意見を述べてきました。

 

とはいえ、高齢者の選挙権を制限するべきという価値観も尊重されるべきですし、議論ももっとなされて良いと思います。

 

例えば、上に挙げたような高齢者選挙権の制限の主張に対して、「民主主義に反しているからダメ」「人権侵害だからダメ」「憲法違反」とあっさり切り捨てる反論が目につくのですけれど、そもそも彼らの提案は民主主義の枠組みを変えたり、人権の概念を変えたり、憲法を変えたりすることまで想定してる意見ではないかと思います。

ハードルはとても高いですが、民主的な手続きで日本の「民主主義」や「基本的人権」を記述する憲法を変えることが許されている以上、「民主主義に反してるからダメ」というのは「既存の価値観に反しているからダメ」と言っているに過ぎず、新しい価値観を提案している人への反論にはなっていないと感じます。それこそ高齢者の選挙権を制限するべきという価値観の無視や、既存の価値観の押し付けという独善になってはいないでしょうか。

 

私が挙げた数々の反論についても、私自身、絶対的な反論であるとは思っていません。

それらを全部飲み込んだ上で、それでもみんながやっぱりシルバー民主主義はダメだと思うなら、現在の枠組みは絶対ではないのですから、シルバー民主主義を是正する方向に進んで良いと思っています。

 

いずれにしても、彼らの高齢者の選挙権を制限するべきという主張や、私の問題提起などをきっかけに、民主主義や選挙権についてみんなが考えたり、議論が深まれば良いなと思います。

 

そうやってみんなで考えて語り合って議論することが、民主主義らしいんじゃないかなと私は信じていますので。

 

 

 

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P.S.

んー。思ったより長くなった(;・∀・)

まだ書き足りないところもあるぐらいなのに。。

まあでも結構大事な問題ですので。

 

そういえば、高齢者の選挙権を制限しようとか、高齢者の能力は劣ってると言う方って、普段どれぐらいご高齢の方々と接してるんでしょうか。自分の祖父母とかご両親とかしか実は交流したことがないというなら、まずはご高齢の方々に会ってみるべきじゃないかと思うんですよね。

ドラマとか映画とかのご高齢のキャラクターのイメージが強すぎるのかもしれませんけど、一般的に高齢者は過度に弱いものとして認識されすぎちゃってる気がします。

 

(10180文字)